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【永井拓相横専で得意の熱弁】
―政局の梅雨も他処に―
6月16日


横浜専門学校から招かれた現代雄弁の権威拓務大臣永井柳太郎氏は十六日午后二時自動車で来浜、六角橋の同校講堂に溢れる一千余名の学生並に鬼頭横浜裁判所長以下来賓の拍手を浴びて登檀。「校長の林検事総長に招ばれたので検事局に引張られるのかと思つたら横専に連れてこられた」と軽く冒頭し、一流の雄弁をもつて個性の尊厳と日本民族の使命と題し滔々一時間余り懸河の弁を揮つたが、終つて来賓職員との茶話会に於て懇談して帰京した。
 (写真壇上の永井拓相) 

《解説》 「横専」は昭和3年(1928)設立の専門学校横浜専門学校(私立、現神奈川大学)。
【から梅雨の陽】
―緑漸く濃に海風微かに払ふ―
6月17日

近代的の山下公園青毛氈を布いた芝生、若人の延び行くのを表象するかの如きアリ山松、ホテル・ニユグランドを背景とした泉水の傍に佇み、海風微かに脚線を払ふ時、誰かモダニズムならざる! (山下公園にて)    

《解説》 背後の建物は昭和2年(1927)竣工のホテル・ニューグランド。
【県治の達成を期して】
―県下市町村長会議開かる―
6月18日


十八日招集された県下四市七十五ケ町村のお歴々の市町村長会議は午前十時県会議事堂に於て開催、横山知事の改正衆議院議員選挙法の実施に就いての注意を強調せる訓辞に次いで、各部課長の指示事項説明あつて正午開港記念会館にて知事招待の午餐会に望み、午後両会商工業組合の普及促進に関する件外十七件の注意事項及び質疑応答を行ひ同三時散会したが、横山知事は先般優渥なる勅語を賜はつた初等教育の作興に当つては特に全力を尽す可く力説した。 (写真は会議中の町村長) 
【海浜所見】
―水の慕はしき夏が来ました― 
6月19日

扁船の満帆! 本当に片船の漫歩です。何と軽快な彼女の姿!…………
【功・抜群の三警官を検事正が表彰】
―署長会議第二日検事局にて―
6月20日

県下警察・消防署長会議第二日は廿日県会議事堂に開催。衛生.建築工場に関する指示注意並に諮問事項二件を議了。午後は裁判所会議室にて続行松井検事正の訓示の後、優良警察官として保土ヶ谷署長中村忠勝氏.刑事課智能犯係丸西芳郎氏 強力犯係荻原幸吉氏に対して表彰状及紀念品を授与され終つて、博雅亭に於ける検事正招待の晩餐会にのぞんだ。 (写真は向つて右から荻原.丸西.中村の三氏と松井検事正)
【進行中の列車に超短波で『モシモシ』】
―躍進する無電時代に    
          鉄道省のテスト― 
6月22日

進行してゐる列車に無電で操作命令する試験が、廿二日午前新鶴見の操車場で本省から吉川電気局長以下の係官出張して宇田式無線電話機を操車発令室と機関車に取付けて行つたが、障害物たる高圧線の下や堤防のかげ又は変電所の附近等を繰返して運転したが、成績良好で市内の電話よりも明瞭に聴取されたので同所の入換作業に使用する事になつたが、今後一層改良の上一般旅客の便にも供せられる筈である。 (写真は機関車上の実験)
【夏の魅惑水水水!】
―水の世界にうつる
     「水上ニツポン」の夏姿― 
6月23日

夏の前哨戦として横専Y専の水泳定期戦を終り、続いて五専門校大会以下のプログラムは並べられて試合に練習にプールのスケージユル(ママ)は忙しく、水面は波納まらない均整の美、ダイビングは碧空に弧を画いて飛沫は終日高く、彼等の肌は焦げても誇る可き「水泳日本」の行進曲は朗らかである。
(写真元町プールの賑ひ)  

《解説》 昭和7年(1932)の第10回ロスアンゼルスオリンピックで日本水泳陣は金メダル5、銀メダル5、銅メダル2を獲得、「水泳日本」を世界に印象付けていた。
【米のなる木をまだ知らぬ】
―お嬢さん方の見学― 
6月24日

花咲町理容学校女学部生徒さんは新らしい職業戦線に大活躍を目論み高鳴る胞(ママ)を押へて学業にいそしんてゐるが、何れも都育ちのお嬢さんのことゝて農村の知識に乏しいのは現代社会の認識に外れるものとして、廿六日午前家政学時間を利用して赤間理事に引率されて弘明寺郊外へ出かけて田植を見学、農本恩想を吸収した。
【日吉村を巡つて横・川・両市の大紛叫】
6月25日

慶応学園の誕生其他で最近飛躍的発展を見た橘樹郡日吉村は、川崎市に合併すべく両者で協議を重ねてゐたが、川崎よりも横浜の方が有利だと云ふ意見も台頭して其の間相当波乱生み、夏期に向つて給水問題がとりもち反対に横浜派が勢力を生じ、遂に廿六日の村会で十対二の大多数で横浜市との合併が議决されたので、川崎合併派では横浜市の策動に依るものだと極度に憤満(ママ)の意を漏し川崎矢島市議長.齋藤.吉浜其他佐伯.村議約五十名が横山前助役に伴はれ県に知事代理古川内務部長を訪れ善処を望むと陳情した。 
【独逸の制服は如何!】
―国際都市らしき街頭風景―  
6月25日

独逸の制服で颯快として初夏の風を斬つてナチス式の足どりを街頭に見せる彼女達、あわて給ふな、独逸の留学生ではありません。最近太田町に出来た独逸ビール・スタンドのサービスガールだ……

《解説》 「○○ガール」という呼称はこの当時「モダン」な職業の女性につけられた。日独防共協定が結ばれ、日本とドイツが接近するのは2年後の昭和11年(1936)。
【未来の横網(ママ)】
―横浜からとび出す― 
6月27日

中区内田町六丁目八百屋の息子で西村文雄君は満十五才の少年だが、身長五尺二寸五分で体重廿一貫余といふ珍しい怪童。幼少から角力が大好きで、近所若衆角力には何時も出て特に五人抜きは大得意である。廿貫目位のものは平気で運ぶといふ豪傑ぶりで、はやく本當の角力になりたいと未来の横網(ママ)を望んで国技館を目指して頑張つてゐる。  
【華々しき『本牧おけさ』海の家開場】
―マリンガールも出現して
         文化的設備整ふ―
6月30日


夏の殿堂として本牧「海の家は」(ママ)モダン瀟洒な白亜の姿を本牧海岸に現はし、あらゆる文化的施設完く成つて、卅日午后一時から戸井代議士以下発起人株主 原.矢島.亀井の諸氏始め、県市当局及び市内有力者一千名招待して盛大な開場式を挙行。当日は平塚委員長以下係員の大童の接待に専属マリン・ガールやサロンの女給及本牧芸妓の超特サービスで来会者を満喫させたが、一般開場は七月一日からである。 (写真は同日余興本牧おけさ踊り)

《解説》 当時は「○○おけさ」「○○節」といった民謡が復活し、中山晋平作曲「波浮の港」など新民謡も流行した。

【黒き島の娘】
―曲線美を発散しに十一名来る― 
6月30日


「色は黒いが南洋じや美人」であるところのサイパン島の酋長の娘リビヤナ嬢(十二才)を始め十一人の南洋のシヤンが卅日早朝郵船筑後丸で入港したが、此の黒色の美人連は今夏東京に開かれる納涼博覧会に招かれたもので、大いに曲線の踊りを御覧に入れて内地の方々を悩殺しやうとやつて来たものである。 (写真は一行中の代表美人リビアナさんの内地の陸を見た喜びの一踊り)

《解説》 サイパンは第一次世界大戦後、日本の委任統治領となった。この時期、日本内地と海外の植民地・占領地の都市との関連が強まっていた。