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【有閑婦人はグロがお好き?】
―彼女のベツド(ママ)は
   アメリカ生れのホルン・トツド―
6月1日

最近モダンマダムやガールの間に愛玩されて時にはハンド・バツク(ママ)に入つで(ママ)銀座へお供もするしレストランの卓子で御馳走も頂く小型の怪動物があるが、これは北米合衆国の西部沿岸に棲息するホーン・トツド Horned toad の一種で砂地を好んで居りカルホニアの海岸辺では日やけした男女の背や足の上を這ひ廻つて喜ばせたり、楽しい語らひの最中にお尻の下へもぐりこんだり中々愛敬の有るもので、銀座で売出した値段は二十円位であるが横浜でも某夫人が携帯して盛んにモボ達を怖がらしてゐる。
 (写真はM夫人の寵愛の角蛙)

《解説》 「グロ」は「グロテスク」の意。「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉が大流行したのは昭和5年(1930)から7年頃のこと。この時代、より新奇なものがメディアに取り上げられた。
【珍奇華麗を凝して「商工祭」の仮装大行列】
6月2日

開港記念日の催しの一つ「商工祭」は二日午前十時より公園音楽堂で祭典執行の上、午後零時半より山下公園出発、仮装行進に移つたが五十の参加商工業者の全能を尽した宣伝陣は十余町に及び市内を縦横に練り、夕刻神奈川公園到着解散したが、審査の上優良六店に対して優勝杯を贈る筈であると。
 (写真は日本大通進行中の行列検事局屋上より写す)
【嗚呼−軍聖永へにかへらず】
―大東郷逝いて哀悲の涙全日本に満つ―
6月3日

史上に燦たる勲功を刻し、軍国日本の守護神として万世の畏敬を一身に集めたわれらの提督「東郷元帥」の溘焉として逝くや、日本全国民を挙げての限りなき悲愁と哀悼追慕のうちに畏こくも弔せらるゝに国葬の礼を決つてし誅を霊前に賜わるは武人の光栄こゝに極まり、今は亡き沈黙の大提督も聖恩の厚き感泣し、必ずや雄魂護国の神となり永遠に神国日本を守るであらう。 (写真は在りし日の故元帥海軍大将従一位大勲位功一級東郷平八郎閣下)

《解説》 東郷平八郎は日露戦争時の連合艦隊司令長官。明治38年(1905)の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させ国民的英雄となった。東郷は明治初年に横浜・元町三丁目の石川半右衛門家(「代官屋敷」の徳右衛門の弟)に寄寓し、山手の英国人に英語を習っていたという(『東京朝日新聞神奈川附録』6月1日付)。
【故東郷元帥の】
―国葬に参列の特使を乗せて
      各国軍艦相次いで入港― 
6月4日

五日の国葬に参列の使命を帯びて支那各港から急航中のフランスのブリモーゲン号(一万噸)巡洋艦及びアメリカのオーガスタ号(一万噸)は相次いで四日横浜に入港。三日入港中の英国サフ.オーク号及び帝国軍艦比叡等の礼砲交歓の後同日午後二時山ノ内岸壁に繋留した。尚岸壁には連絡将校下村大佐.小池大尉.アメリカ大使館付武官ロジヤース大佐等が同艦に到り、国葬当日の万般の打合せをなした。 (写真は上から接伴艦比叡 米オーガスタ号仏ブリモーゲン号英サフ・ォーク号)
【金港横浜の開港央(ママ)を飾る
記念バザーも本年十五回で見終めか!】
6月4日

開港記念横浜の名物バザーは去る六月一日より十五回の回を茲に開かれた。此のバザーもいよいよ今年限りで見終と云ふので、公園.日本大通りは文字通り人の渦巻き、電車道の空には数百のイルミネーシヨン、二百余の商店の装飾電燈等であかあかと場の隅々迄照らし、夜の公園附近一帯はまるで人と電燈の交錯、何処の余興場も満員に満員深更までも大賑ひを呈し毎日物凄い人出である。 (写真は日本大通り)



【弔砲殷々として世界の英雄
        『トウゴー』を送る】
―列強の精鋭艦半旗を掲げて―
6月5日

国葬に参列の英米仏の儀礼艦は五日国葬発引の儀たる午前八時三十分、まづ接伴の比叡、品川沖の伊勢と呼応しての第一発を合図に、オフオーク号ブリモンゲン号・オーガスタ号の各艦より続いて一分置きに十九発の弔砲港の空に轟き、世界の東郷提督の国葬の盛儀にふさわしく彩つ(ママ)を。
 (写真は上から英艦サフオーク 下右仏艦ブリモーゲン 同右米艦オーガスタス号の弔砲発射)
【悲しき盛儀】
東郷元帥の国葬 
6月6日

五日午前八時三十分巨人東郷の霊柩は砲車に移されて哀しき軋音を玉砂利に残して肅々と日比谷へと向つた。先頭に葬送曲を奏する海軍々楽隊に次いで陸海軍儀伏隊の静かな靴音が肅然たるリズムを織り、街頭にはためく弔旗に指揮官の握る喪章で捲かれた軍刀に、又は外国特別儀伏隊の伏銃にもすべてが鈍色の悲しみを包む中に林副長官の捧ぐる元帥刀と生前の勲功を物語るの数々勲章のみが金色に燦として輝やいてゐる。かくて殷々たる弔砲と海軍機の悲愁の爆音の下を御下賜の真榊に飾られた森厳の斎場へと歴史的感激の葬列は進んで行く。 (写真は霞ヶ関にて霊柩車)  
【珍しや支那軍艦!】
―廿三年ぶりで横浜へ入港― 
6月7日

東郷元帥の国葬に参列の中華民国玉寿延将軍及儀仗兵四十名を門司で下した支那軍艦「寧海」号は、六日午後横浜へ入港したが、支那から我が国へ軍艦が来訪したのは日清戦争直前明治廿五年の夏清朝の名提督丁汝昌が定遠鎮遠を始め当時の精鋭艦六隻を率いて生麦沖に投錨、上陸した水兵達も大いに威張り散らし盛んに示威運動をして、其の頃海軍が貧弱だつた我が国民の心胆を寒からしめ、次いで同四十四年海功号が一寸立寄つたきりで其の後廿三年間お目に掛かゝらなかつたが、今度来たのは御覧の通り堂々たる最新式の軽巡洋艦で十四サンチ砲六門八サンチ高射砲六門水雷発射管四門を備へて艦長高憲申大佐他士官四十二.下士官兵三百二十三名で満州事変の真最中に幡磨ドツクで建造したものであるが、上官は多く英国仕込で態度も中々紳士的であり兵の訓練.作業も立派なものである。
【プールの水温んで】
―待望の夏は来たりぬ― 
6月8日

目に新緑の色は日毎に濃く満々と湛ゑたプールの水温高まるザブン!と清新な飛沫を上げて見事な彼女のダイビングにも夏の感触は益々深い………………
 あゝ憧れの夏は来たのだ……
 (写真は元町のプールにて)

《解説》 元町公園プールは昭和5年(1930)の完成。5000人収容のスタンドを擁して、その設備は「東洋一」と謳われた。
【いよいよ市電にソプラノ・サービス】
―十三日から女車掌の御目見得―
6月9日

市電当局が顔と声とで選んだゴ自慢の女車掌卅六名は滝頭教習所で友澤電車主任以下の先生方に就いて実習中であつたが、何しろ三割は女学校出であるしいづれも頭がよろしいので早くも十二日から電車に乗込んでお得意のソプラノでサービス今後もいろいろの殿方も電車賃奮発することになるから市電増収は間違ひ無し。
 (写真は滝頭車庫にて)

《解説》 1930年代になると、バス・タクシー・郊外電車の乗り入れなどにより横浜市電の財政は停滞、日給80銭前後の女性車掌の採用は経費節減の一策でもあった。背後の市電は3扉の1000形で中央の出入口に女性車掌が乗務した
【金扇をかざして麗人の舞ひ】
―公園グランド柔剣道場に
          処女のつどひ― 
6月10日

横浜市連合女子青年の幹部講習のうち、家庭舞踊はコロムビア専属指導員河野達郎氏に就いて公園スタンドの青年団修養道場に於て練習してゐるが、現今流行してゐる卑俗な歌謡を排して、情操の善導と体育奨励の意味で特に横浜市歌及精神作興の歌等に振り付ケを行つたもので、今後各種の挙式や会合の際に公開発表する筈であると。 (写真は君が代の舞踊)

【美しき混血の踊子姉妹】
―歌と踊のウオース・シスター来る― 
6月13日

十三日午後横浜に入港した秩父丸で美しい二人のダンサーが来朝したが、彼女達はウオース・姉妹といつて香港 上海を振り出しに各国を踊りと歌で巡遊の途中寄港したもので、日本では新橋ダンスホールで招聘十六日から十日間同ホールでソシアルダンス及ステージダンスのエキジビジヨンを行ひ、其後某大劇塲へアトラクシヨンとして出演の契約もなつたが、四号岸壁には新橋ホール及横浜メトロポリタンのダンサーが多数出迎へしたがメトロポリタンにも来演の予定でる(ママ)。 (写真秩父丸船上のウオース・シスター)

《解説》 ダンスは1920〜30年代の都市文化に根付いており、横浜にも老舗メトロポリンタン舞踏場のほか、フアロス・ダンスパレス、太平洋舞踏場、カルトン・ダンスホールなどのホールがあった。しかし、わずか6年後の昭和15年(1940)10月、国内のダンスホールはすべて閉鎖された。
【『ミス・カナガワ』に本宮ケイ子嬢選ばる】
―プロフエシヨナル『ミス・カナガワ』
           十傑の中より―
6月14日


東京毎夕新聞社横浜支局主催の職業婦人「ミス・カナガワ」選抜は一般投票の結果十名の候補者を選出し、十四日午後五時よりホテルニユウグランドにて山崎紫紅.栗原清一.坂上安蔵.柴田五万石.北林透馬.寿々山敏子の諸氏出席し審査の結果、フワロスの本宮五百十点で当選、メトロポリタン小長井信子は五百三点で惜しくも次点となつたが、第一位でミスカナガワの栄冠を得た本宮嬢は一昨年神奈川高女卒業し、横浜市役所のタイピストをしてゐたこともあつたが、ホールではいつでもナンバー・ワンを張り通してゐる。
(写真は選ばれた候補者。向て左より二人目本宮嬢)

《解説》 「メトロポリタン」は横浜最古のダンスホール。「フワロス」は「フアロス・ダンスパレス」(ダンスホール)のことか。
【故英人ブリツトン氏を表彰】
―横山知事より生前の功績に対して― 
6月15日


本県では去る三日死去した横浜市磯子区禅馬東洋バブコツク会社社長英人ブリツトン氏に対し表彰状及び銀杯を贈ることゝなり、十五日午前同氏未亡夫人を県庁に招じて伝達したが、ブ氏は明治卅七年より当市に在住日英親善に意を注ぎ、特殊工業の進展並に研究に貢献し、又各種の公共事業に尽した功績によるものである。尚ほ本県として外人を表彰したのは同氏を以つて始めてゞある。 (写真横山知事より表彰状を受ける未亡人)
【お聟さんを探して来た鳩のモガ子】
6月15日


中区前里町一ノ四羽二重商広瀬リウさんの愛鳩ポウ子嬢は、去る五月突然姿を隠してリウさんを失望させたが、一ケ月も経て数日前に夜になつてから庭先でポウ子の鳴き声がするので出て見ると、彼女はキレイな黒羽の雄鳩と手に手を取つてかへつて来たので、これを一緒に飼つたところ雄も直ぐ馴れて、毎朝五時には必ずリウさんの枕に立つて両側から頬をソツト突くし、表に遊びに出てゐても、食事の鐘を鳴らせば二羽並んで戻つて来る円満振りでリウさんも大喜びである。 (写真はポウ子嬢と(白)と生んだ玉子)