関東大震災100年
横浜開港資料館・横浜都市発展記念館令和5年度合同特別展  神奈川震災100年
大災害を生き抜いて―横浜市民の被災体験―

展示構成

Ⅰ 第一次世界大戦前後の横浜

1914(大正3)年7月に勃発し、1918年11月に終結した第一次世界大戦は、日本の重化学工業化を促し、地方から都市への移住者を多く生み出しました。横浜の人口も急速に増加し、臨海部では港湾の整備や埋立事業も進んでいきます。また、神奈川県の政治・経済の中心地である関内地区には、横浜市役所や神奈川県庁、開港記念横浜会館のように耐震・耐火のレンガ建築が登場したほか、外国人の働く山下町には、石でできた西洋風の商館も建ち並んでいました。一方、横浜を代表する繁華街である伊勢佐木町を中心に、日本人の集住する関外地区では、町屋などの木造建築が密集する状態となっていました。そうした街中を路面電車(横浜市電)が走り、人だけでなく、荷馬車や人力車、自転車なども行き交っていました。1923(大正12)年9月1日午前11時58分、横浜の街は激しい揺れに襲われ、人びとの平穏な日常は崩れていきます。

桜木町駅(初代横浜駅)

桜木町駅(初代横浜駅)
1923(大正12)年8月 中野春之助撮影 「横浜市電気局写真アルバム」 横浜都市発展記念館蔵

1872(明治5)年の鉄道開業と同時に運用が始まった初代横浜駅は、新橋駅(後の汐留駅)とともに日本最古の駅舎だった。2代目横浜駅の開業によって「桜木町駅」と名称を変更したが、陸の玄関口としての機能は維持した。駅前には人力車や自動車が並んでおり、利用者はそれらを活用して目的地へむかったほか、電車の高架と並走した市電は桜木町を経て市街中心部へと進んだ。駅前には伊勢佐木警察署の桜木町派出所も確認できる。

地震発生後の桜木町駅

地震発生後の桜木町駅
1923(大正12)年9月 中野春之助撮影 横浜都市発展記念館蔵

電気局の職員だった中野春助の残したガラス乾板の1枚。桜木町駅は最初の震動で外壁が崩れたほか、コンクリートの床面に亀裂が入り、天井や内装も落下した。さらにその直後、2回目の震動で屋根瓦が飛散、柱も傾くなど被害は拡大していった。駅員たちは落下物の下敷きになった人の救助を行いつつ、旅客等の避難誘導を行った。その後、都橋方面から火災が迫り、桜木町駅は午後2時30分頃に焼け落ちたほか、線路上に停車していた電車も焼かれていった。関東大震災によって日本最古の駅舎は失われてしまった。

Ⅱ 横浜の壊滅

元街尋常高等小学校の教師であった八木熊次郎(彩霞)は、「遠雷のやうな響きがしたと思ふと間なしに烈しく上下震動が起った。棚のものがからからと落ち、電燈がぱちん、ぱちんと天井にぶちあたって居た」と、地震発生時の様子を日記に記しています。午前11時58分の本震発生から3分後、東京湾北部を震源とするマグニチュード7.2の余震、続いて同0時3分に神奈川、静岡、山梨の県境付近を震源とするマグニチュード7.3の余震が連続して発生しました。江戸時代以降の干拓地や埋立地の上に形成された市街中心部は激しい揺れに襲われ、多くの建物が倒潰、瓦礫は道を塞ぎます。また、山手や野毛など下末吉台地の斜面では崖崩れも発生し、人びとの行動に制限を加えます。続いて市内289ヵ所から火災が発生、強風に煽られた炎は急速に燃え広がります。水道の破裂によって消防の機能が失われるなか、生き残った人びとは火災に追われていきました。

火災に襲われる元街尋常高等小学校

火災に襲われる元街尋常高等小学校
1923(大正12)年9月 八木彩霞画 『震災記念 元街小学校復興誌資料』 第弐編 所収 横浜市史資料室蔵
八木熊次郎が勤務先の元街小学校に到着すると、運動場は避難者で溢れていたほか、同僚の矢口繁三主席訓導が校舎の倒潰に巻き込まれて重傷を負っていた。校長の山内鶴吉は教職員を指揮しつつ、応急対応にあたっていたが、周囲から火災が迫ってきた。避難者たちは慌てて山手公園へ逃れていった。続いて矢口を戸板に乗せた教職員たちも急いで山手公園へ移動する。その後、炎に包まれた元街小学校は午後3時頃に焼け落ちていった。

避難者であふれる山手公園

避難者であふれる山手公園
1923(大正12)年9月 八木彩霞画 『震災記念 元街小学校復興誌資料』 第弐編 所収 横浜市史資料室蔵
元街小学校の教職員たちが横になった矢口繁三主席訓導の救護を行っている。八木熊次郎は近くの外国人からサイダーと牛乳を提供してもらい、それを矢口に飲ませている。しかし、それ以上の手当はできず、矢口の救護を同僚の教職員に託し、自らは山内鶴吉校長とともに青木町上反町480番地の自宅をめざすことになった。外国人を含めた山手町の人びとは、山手公園のほか、外国人墓地や新山下町の埋立地などに避難していた。

 震災被害図

震災被害図
1932(昭和7)年 横浜市役所作成 『横浜復興誌』第2編付録 横浜都市発展記念館蔵
横浜市の被災状況を表した地図で、焼失区域(赤色)、倒潰区域(青色)、橋梁被害(×印)などを示している。江戸時代前期に干拓された旧吉田新田や、横浜駅を含めた帷子川河口部の埋立地など、市街中心部の平坦な土地はすべて焼き払われていった。地震直後、市内289カ所から発生した火災は強風に煽られて急速に燃え広がり、横浜市は僅か1日で焼け野原となった。八木熊次郎は火災を避けながら上反町の自宅にむけて移動していった。

Ⅲ ジャーナリストの関東大震災

インターネットはもちろん、テレビやラジオもない大正時代、当時、最先端のメディアは毎日発行される新聞でした。そして取材活動を展開する新聞記者、ジャーナリストは人びとに情報を伝える上で重要な役割を担っていました。横浜貿易新報社(現在の神奈川新聞社)の記者だった竹内八十吉(枯山)は、神奈川県庁に隣接する警察部の庁舎内で地震に遭遇、庁舎外へ逃れるなかで、「此大惨事を新聞紙に依て報導すべき者」と意識します。さらに「明日は、新聞は全紙悉く此記事で埋めらるるであらう。多忙の幕は之から開かるるのである」と、使命感に燃えていました。しかし、左右に揺れる開港記念横浜会館の時計塔を見た八十吉は、「此大さん事は新聞紙報導の線外に脱して居る。最早人事を超越した大さんくわであると感破した」としています。以後、八十吉は自らの生命の保護に努めつつ、家族の安否を確かめるため、混乱する被災地を駆け抜けていきました。

焼け落ちた開港記念横浜会館

焼け落ちた開港記念横浜会館
1923(大正12)年9月 中野春之助撮影 横浜都市発展記念館蔵
火災に襲われた開港記念横浜会館。窓から曲った鉄骨が確認できる。地震発生直後、使命感に燃えた竹内八十吉だったが、「尚ほ記念会館の高塔が左右にゆられて居た。前方の商店も倉庫も悉く倒れて居る」という状況に直面し、通常と大きく異なる災害であると直感した。この後、本町周辺では数カ所から火の手が上がり、急速に燃え広がっていった。八十吉を含め、官庁や会社、商店の出勤者の多くは横浜公園をめざして避難していく。

山下町135番地からの出土遺物

山下町135番地からの出土遺物
横浜開港資料館蔵
2000(平成12)年の山下町公園(中区山下町135番地)の改修工事で発見された遺物。関東大震災時、この場所には中華民国総領事館があり、総領事以下7人は建物の下敷きとなって亡くなった。地震発生前、横浜には約5,700人の中国人が住んでいたが、犠牲者の数は約1,700人にのぼり、生き残った約4,000人が神戸等へ避難した。地震発生後、横浜の中国人の数は200人ほどに激減する。横浜市中心部、山下町方面の煉瓦造や石造の建物は激しい揺れによって次々と崩壊していった。

Ⅳ 混乱する被災地

老松尋常高等小学校6年生だった葛城久子は花咲町5丁目、野毛山不動尊(成田山横浜別院)近くの自宅2階で地震に遭遇します。激しい揺れに襲われたものの、建物自体は無事で、久子は父、母、祖母、弟、妹とともに不動尊をめざして動き始めました。しかし、崖崩れのため、不動尊へと続く坂を登ることができず、瓦斯局、紅葉坂、伊勢山皇大神宮と、避難場所を転々とします。その途中、火災旋風に襲われ、家族はバラバラになってしまいますが、無事に合流して掃部山に落ち着きました。翌9月2日朝、津波の襲来や巨大地震の再来など、根拠のない流言が避難場所に伝わってきます。不安になった葛城家は安全な場所を求め、親戚のある磯子町をめざして焼け野原となった市街地を進み、無事に親戚宅にたどり着きます。しかし、暗闇のなか、近くに横浜刑務所のあった磯子町では、さらなる困難が久子たちを待ち受けていました。

地震発生直後の横浜市街地 1923(大正12)年9月1日 岡本三郎撮影 横浜開港資料館蔵

横浜市野毛山不動尊惨害
1923(大正12)年9月 西野芳之助撮影 横浜開港資料館蔵
花咲町の参道から延命院本堂にむかう階段の部分。崖崩れによって石垣は崩壊、樹木も根元から倒れていった。境内にあったモニュメントも被害を受け、錫杖を模した手前のものは台座部分の土が崩れて一部なくなっている。野毛や山手など市街地を囲む台地部分では、各所で崖崩れが発生し、崖下の建物を押し潰した。燃え盛る市街地から野毛山や伊勢山に逃れてきた人びとは、崩れた崖を登りながら安全な避難場所を求めていった。

地震発生直後の横浜市街地 1923(大正12)年9月1日 岡本三郎撮影 横浜開港資料館蔵

自警団の目には地蔵も人に見ゆ
1925(大正14)年9月 横浜開港資料館蔵
横浜納札浜菱連震災追善千社札の1枚。地震によって電気、ガス、水道、鉄道、電信、電話など、人びとの日常生活を支える社会基盤はすべて崩壊した。暗闇が被災地を包むなか、大火災を逃れた被災者たちの心理状態は不安定となり、様々な情報を無批判に受け入れた。自警団が人間と石地蔵を見間違えるなど、被災地の混乱は極限に達した。葛城久子も不安な気持ちと混乱した9月2日夜の状況を記録している。

Ⅴ 避難場所を求めて

地震や火災から逃れた人びとは安住の地を求め、縁故先へ避難していきます。また、横浜在留の外国人たちも同じ港町である神戸へと移動していきました。そうしたなか、八木熊次郎は反町の自宅にバラック小屋を建てて家族と共に生活しますが、食糧等の物資が不足するなか、次第に体調を崩してしまいます。軍隊など外部からの来援によって被災地の混乱状況が落ち着いてくると、各府県は被災地に各種救援団体を派遣して救護活動を展開、県人会などを通じて物資の配給を行いました。これは移住者たちに郷里との繋がりを再認識させる契機となりました。しかし、熊次郎の郷里である愛媛県の応援は確認できず、熊次郎は強い不満を抱きます。9月23日、熊次郎は帰郷を決断し、神戸を経由して家族と一緒に愛媛県の松山にむかいました。そして松山では、県知事や市長、地元新聞社に横浜の惨状を訴えるとともに、教科書など救援物資の発送に尽力しました。

地震発生直後の横浜市街地 1923(大正12)年9月1日 岡本三郎撮影 横浜開港資料館蔵

震災横死者火葬図
1923(大正12)年 八木彩霞画 『震災記念 元街小学校復興誌資料』所収 横浜市史資料室所蔵
八木熊次郎が描いた9月10日頃の被災地の様子。横浜市内では、犠牲となった人びとの火葬が各所で行われていた。横浜市役所は衛生課と社会課を中心に、死体取片付係を組織し、神奈川県庁や県警察部と協力してその処理にあたった。最初、身元不明の遺体については久保山や三沢の市営墓地に仮埋葬する方針がとられたが、腐敗が急速に進んだため、身元の明らかになった遺体に関しては各所で荼毘にふされることになった。

地震発生直後の横浜市街地 1923(大正12)年9月1日 岡本三郎撮影 横浜開港資料館蔵

被災者の避難生活
1923(大正12)年 八木彩霞画 『震災記念 元街小学校復興誌資料』所収 横浜市史資料室所蔵
地震発生から約1ケ月後の状況。生き残った人びとは、焼け跡からトタンや木材などの廃材を集め、応急の小屋を建てて生活した。自宅の庭に小屋を建てた八木熊次郎は、「混乱に続いて物資は刻々と欠乏を告げ、食料は云ふ迄もなく、身に一紙片布をも持たざる人々は、懐中多分の通貨を用意せる者にても余程遠隔の地に走らずに非ざれば、日常の物、生活行止り、餓死せざる可からず」と、苦しい被災地の生活状況を記録している。

Ⅵ 体験記が語る関東大震災

大災害を生き抜いた人びとは、自らの体験を日記や回想録、手紙などに認めていきました。例えば、橘樹郡保土ケ谷町(現・横浜市保土ケ谷区)に住んでいた佐藤謙三(後の国文学者、國學院大學学長)は、自宅で激しい揺れに襲われました。当時、12歳の謙三は、神奈川県立横浜第二中学校(現・翠嵐高等学校)の1年生で、日記や回想記にその時の様子を記しています。また、自宅周辺の被災状況をスケッチに残しました。大きな被害を受けた保土ケ谷町の状況がうかがえます。ここでは佐久間権蔵、飯田助夫、磯野庸幸、中山幸三郎、渡辺歌郎、日高帝、関根八郎、黒河内嵓、多勢幾代などの記録から横浜市民の被災体験を紹介します。

地震発生直後の横浜市街地 1923(大正12)年9月1日 岡本三郎撮影 横浜開港資料館蔵

佐藤謙三の記録
大正期 横浜開港資料館蔵
佐藤謙三は自らの震災体験を複数の日記に書き記している。国民書院発行『大正十二年 学生日記』には、地震発生以降の日々の様子が記されているほか、9月、10月、11月、12月の月末にはそれぞれの月の感想があり、復興の様子もうかがえる。また、1923(大正12)年10月10日に記された「震災の思い出」は、地震発生から約1週間の状況を回顧しており、緊迫した状況を現在に伝えている。さらに翌24年の博文館発行『大正十三年 当用日記』、日本女性教育研究会発行『暑中休暇日誌』には、震災1周年の街の様子が記録されている。これらの日記を読み解くことで、1人の少年の震災体験が浮かび上がってくる。

地震発生直後の横浜市街地 1923(大正12)年9月1日 岡本三郎撮影 横浜開港資料館蔵

佐藤謙三日記
1923(大正12)年 横浜開港資料館蔵
国民書院発行の『学生日記』を用いた1923年の日記。毎月、謙三は1ケ月を総括した感想を日記に記していた。同年9月の感想には、「古今未曾の大地震があった。一日早々、えんぎわるい」とし、「家は無事だったが、我市はほとんど全滅になった」とした上で、「世の中も一変する事だらろう。記念すべし、永久に、大正十二年九月一日を!!」と書き残している。9月の記述からは、地震直後の混乱状況から次第に平穏を取り戻し、横浜の街が復旧していく様子もうかがえる。第二中学校も10月1日から授業を再開することになった。

Ⅶ 関東大震災の記録化

発災後、関東大震災の状況は各地の新聞に報じられただけでなく、雑誌やグラフ誌、写真、絵葉書などの形で伝わっていきました。また、関連する書籍も数多く出版されていきます。さらに行政を中心に災害の記録を体系化した写真集や、「災害誌」も編纂され、災害の概要を今日に伝えています。しかし、災害誌等の編纂作業では、情報の取捨選択が行われ、失われていった情報も数多くあります。そこで災害の全体像を捉えるには、災害誌などの公的な記録と、体験記などの個人の記録を相互に検証していく必要があります。ここでは中野春之助が撮影したガラス乾板写真を例に、関東大震災の記録化の過程を紹介します。

地震発生直後の横浜市街地 1923(大正12)年9月1日 岡本三郎撮影 横浜開港資料館蔵

「横浜駅のプラットホーム」の写真原板
1923(大正12)年 横浜都市発展記念館蔵
横浜駅プラットホームの駅員を捉えている。小池徳久『横浜復興録』(横浜復興録編纂所、1925年)を皮切りに、各種「災害誌」で用いられ、戦後の関東大震災関係の展示でも活用されてきた。横浜開港資料館所蔵の岡本三郎の写真群には、岡本自らが裏面に「横浜駅と高橋駅長」と記した写真があるが、加工の痕跡が確認できる。おそらく岡本は外部からこの写真を入手したと推察できる。また、同時期の横浜駅長は太田峰尾であり、『帝国海陸運輸交通界官民列伝』(1924年)から中央の人物が太田であると特定できた。

地震発生直後の横浜市街地 1923(大正12)年9月1日 岡本三郎撮影 横浜開港資料館蔵

大震火災電気鉄道被害情況
大正期 横浜開港資料館蔵
横浜市電気局がまとめた『大震火災電気鉄道被害情況』には、パノラマ写真を含めて60枚の写真があり、そのうち35枚のガラス乾板(写真原板)が確認できた。『大震火災電気鉄道被害情況』の写真には、同一画面上に撮影場所に関する情報が含まれている。ガラス乾板を確認すると、同じ位置に薄紙を貼り付けていた痕跡があるので、原板で間違いない。この写真は『鉄道震害調査書』(鉄道省大臣官房研究所、1927年)のほか、『横浜復興誌』(横浜市役所、1932年)や『横浜市電気局事業誌』(横浜市電気局、1940)などにも用いられていった。中野春之助撮影の写真は災害誌や写真集などに幅広く活用されていった。