ハマ発Newsletter Vol.9

 
  第9号 2007年10月

写された文明開化
―横浜・東京・街・人びと―
わたしの「横浜ノスタルジア」
―常設展示より―
120年前のアイスクリーム製造器
 ジェラール工場跡地を掘る
[寄贈資料の紹介]
 
横浜駅
横浜駅
横浜の陸の玄関口。
明治5(1872)年京浜間
に開通した日本最初の
鉄道の駅舎。
現在の桜木町駅所在地。
明治10年(1877)頃。
臼井秀三郎撮影。
人工着色。
横浜開港資料館所蔵
ごあいさつ
 明治時代について語る際に用いられる「文明開化」「近代化」「西洋化」といった言葉には、厳密に考えれば、それ以前の日本は「未開」であり「前近代的」であり、その文化は西洋より劣っていたことを認める、いわば自虐的な意味が含まれています。しかし、これらの言葉が使われる時、そういった翳(かげ)りはほとんど感じられません。思えば太古の昔から、日本人は外来の文化を摂取することで自分の文化を豊かにしてきたのでした。長い目で見れば、文明開化もそのプロセスの一つなのかもしれません。
 立ち入って観察すると、文明開化は確かに西洋文化に学びつつ、政治・社会制度や生活スタイルを変革する運動でしたが、けっして西洋一辺倒でもなければ、まるごと自己否定でもなかったことに気付きます。西洋から真っ先に取り入れたのは、電信・鉄道・建築など、主として技術の分野でした。生活の分野では、摂取はより選択的であり、緩やかでした。在来の文化を捨てることなく、外来の文化と組み合わせる、したたかな知恵を見て取ることができます。
 9月14日から当館で開催する企画展示「写された文明開化―横浜・東京・街・人びと―」では、横浜と東京に出現した洋風の建物や施設とともに、「明治の人びと」のコーナーを設け、在来の生活を捨てることなく新時代に適応して生きる人びとのバイタリティーも紹介します。また、展示に合わせて出版する『文明開化期の横浜・東京―古写真に見る風景―』(有隣堂刊)では、鎌倉や江の島、箱根、東京の社寺など、「古き日本」を感得させる景勝地として、「若き日本」と共存する役割を得た地域の写真も収録しました。
 展示と出版を通して、変革のさなかにあった時代の風景と人びとの表情を、トータルに理解していただければさいわいです。
斎藤多喜夫

 
 
 
 
写された文明開化
―横浜・東京・街・人びと―


結髪・帯刀の伊藤博文
第1図
結髪・帯刀の伊藤博文

内田九一が横浜馬車道の
写真館で撮影。
横浜開港資料館所蔵
鬚を蓄えた大礼服姿の伊藤博文
第2図
鬚を蓄えた大礼服姿の
伊藤博文

明治10年代。
横浜開港資料館所蔵
 明治初期は日本の歴史のなかでもとくに急激な変革の時代でした。文明国を自認する欧米諸国から未開国扱いされていることを知った日本人は、猛烈な勢いで文明国の仲間入りを目指します。それが「文明開化」でした。
 今回の企画展示「写された文明開化」はその諸相、とくに近代都市として生まれ変わろうとする横浜と東京、そこで生活する人びとの表情を、主として横浜開港資料館の所蔵する古写真を通じて、目に見えるものとすることを目的としています。展示の構成に沿ってその内容を紹介します。

「写真でみる文明開化」と「各地の風景」

 文明開化と言っても、為政者と庶民ではかなり隔たりがあったように思われます。為政者のほうが性急であり、もっとも手っ取り早い方法は欧米諸国の真似をすることでした。模倣の対象となったのは、ヨーロッパで形成された近代的主権国家、中央集権的で、強力な常備軍と排他的な領土を持つ国民国家でした。
 そうした国家を建設するのに妨げとなる制度や風習は「野蛮」なものとして排除されました。槍玉に挙げられたのが「封建制度」を体現する階級、チョンマゲに二本差しの非生産的な階級、すなわち武士であり、廃藩置県から散髪廃刀を経て秩禄処分に至る武士階級の解体と、四民平等や国民皆学・皆兵による、近代国家を担う国民の創造が同時に進められました。それを大半が武士階級出身の政治家たちがやってのけたことには改めて驚かされます。
 第1部「写真でみる文明開化」では、これらの事象に関する写真や関係資料を「断髪と洋装」「徴兵令と軍隊」「学制と教育」のコーナーで紹介します。また、文明の象徴とみなされた新しい施設である鉄道や洋風建築は、「人力車と鉄道」「洋風建築」のコーナーで紹介するとともに、第2部「各地の風景」で、それら新しい施設が点在する横浜、神奈川県内各地、東京の風景をピックアップして紹介します。

横浜郵便局と町会所   第一国立銀行   銀座煉瓦街
第3図
横浜郵便局と町会所

右手前が郵便局、
その向こうは電信局。
左側、時計塔のあるのが
町会所(貿易商の会館)。
人工着色。
横浜開港資料館所蔵
  第4図
第一国立銀行

明治初期を代表する
和洋折衷建築。
三井組ハウスとして
明治5(1872)年に完成、
翌年第一国立銀行となる。
現在の日本橋兜町。
臼井秀三郎撮影。人工着色。
横浜開港資料館所蔵
  第5図
銀座煉瓦街

銀座4丁目交差点から
京橋方向を見る。
明治5(1872)年の大火ののち、
新橋から京橋にかけて、
ウォートルスの設計により
煉瓦造建築の市街が建設された。
『ファー・イースト』
5巻6号(明治7年6月)。
横浜開港資料館所蔵


馬車道の枡屋
第6図
馬車道の枡屋

製茶問屋の初荷風景。
常盤町4丁目所在。
鈴木真一撮影。
人工着色。
横浜開港資料館所蔵
読書する若い女性
第7図
読書する若い女性

人工着色。
横浜開港資料館所蔵


「明治の人びと」

 生活者としての庶民にとっては、文明開化はより緩やかな過程であったように思われます。明治初期の写真に写し撮られたその姿は、江戸時代と基本的には変わりません。一時洋装が流行したこともありましたが、結局普及しませんでした。和服で不都合なかったからです。外来のものを拒否したわけではなく、石鹸やマッチなど便利なものはすばやく摂取されたし、帽子や洋傘、靴も和服とセットで利用されました。第3部「明治の人びと」では、「横浜の商店」「働く人びと」「生活点描」「失われた習俗」のコーナーに分けて、当時の庶民の表情を捉えた写真を紹介します。

スタジオでポーズをとる女性
第8図
スタジオで
ポーズをとる女性

明治初期。
新たに発見された
下岡蓮杖の写真の一つ。
横浜開港資料館所蔵
「カメラマンのプロフィール」

 幕末・明治の横浜は際立って写真の盛んな土地であり、多数のカメラマンが活躍しました。第4部ではそれらを三つの時期に分けて紹介します。
 「幕末」では、開港と同時に来日して江戸や神奈川の各地を撮影したスイス人P・J・ロシエ、横浜に日本初の写真館を開いたアメリカ人O・E・フリーマン、その仕事を引き継ぎ日本人初の写真館を江戸で開いた鵜飼玉川(ぎょくせん)、横浜最初の日本人職業写真家となった下岡蓮杖(れんじょう)、ともに優れたイギリス人カメラマン、W・ソンダースとF・ベアトを紹介します。
 「明治初期」では、今回展示される写真を撮ったカメラマンたちが紹介されます。ベアトの弟子でオーストリア人のR・シュティルフリート、東京でも活躍した内田九一と清水東谷、下岡蓮杖の弟子の臼井秀三郎と鈴木真一です。これらの人びとによって、横浜写真業界の全盛期が準備されます。
 「明治中期」は、風景・風俗写真に手彩色を施し、外国人を顧客として販売される「横浜写真」が全盛期を迎えた時代です。その担い手となったのは、ベアトの弟子の日下部金兵衛、シュティルフリートの事業を継承したイタリア人A・ファルサーリ、商業的にはもっとも成功した玉村康三郎らでした。
 特設コーナーの「下岡蓮杖・内田九一写真鑑定術」と合わせてご覧いただければ、より興味深いものとなるでしょう。ここでは鑑定によって新たに判明した下岡蓮杖の写真を12枚展示します。

フルベッキとその弟子たち
第9図
フルベッキとその弟子たち

佐賀藩が長崎に設立した
致遠館で英学を教えていた
フルベッキと生徒たち。
明治元(1868)年。
上野彦馬撮影。
横浜開港資料館所蔵
「特設コーナー」

 このコーナーは前期(9月14日〜10月31日)と後期(11月1日〜来年1月14日)で展示替えを行います。
 前期は「明治天皇とその周辺」と題し、束帯姿や彩色された軍服姿の明治天皇の肖像写真を中心に、「皇族・公家の出身者」「薩長閥の政府高官」「薩長政府に反対した人びと」「将軍ゆかりの人びと」「神奈川県の創設者」に分けて肖像写真を紹介します。束帯・烏帽子姿に洋靴を履いた岩倉具視像など、変革の時代を具現する興味深い写真もあります。
 後期は「西南戦争と西郷隆盛の写真の存否」と題して関係資料を展示します。中心をなすのは、A・H・マウンゼイ(Augustus H.Mounsey)の著作『薩摩の反乱』(The Satsuma Rebellion)ですが、横浜開港資料館にはその特別なバージョンが所蔵されています。ページの間に間紙を挟み、人物や場所の写真を貼り付けたものです。その中には長崎の上野彦馬が撮影した戦場の写真や政府軍の総督有栖川宮熾仁親王、参軍の山県有朋、川村純義、西郷軍の桐野利秋、別府晋介らの写真が含まれているのに、西郷隆盛の写真がありません。西郷隆盛の写真がこの世に存在しないことの有力な証拠と言えるでしょう。
 これまでに西郷隆盛の写真と誤認された、いわゆる「偽西郷」がいくつかあります。西南戦争に際して西郷軍の三番大隊長となった永山弥一郎(いわゆる「永山西郷」)、薩摩藩の医師(いわゆる「小田原西郷」)などです。西郷のみならず明治維新の志士たちが一堂に会した写真だという憶説で有名になった上野彦馬撮影の「フルベッキとその弟子たち」も展示します。

斎藤多喜夫

 
 
 
わたしの「横浜ノスタルジア」

   前回の企画展示「横浜ノスタルジア昭和30年頃の街角」(2007年2月1日〜4月15日)では、「わたしの『横浜ノスタルジア』」と題して、皆さまのお手元に眠っている懐かしの写真を募集しました。その結果、20名の方から写真のご提供をいただき、合計81点を常設展示室内の特設コーナーにて展示いたしました。ご応募ありがとうございました。
 今では失われてしまった風景。懐かしい想い出のつまった家族写真。そのすべてを紹介することはできませんが、お一人様一点に限り、ここに再録いたします。

家族の思い出 建設中の横浜マリンタワー 吉田川の埋立
家族の思い出
昭和32(1957)年
篠崎洋子氏提供 大桟橋
建設中の横浜マリンタワー
昭和35(1960)年
松川正巳氏提供
吉田川の埋立
昭和52(1977)年頃
恩田喜一郎氏提供


昼休みの一時 消えてしまった磯子屏風ヶ浦海岸 桜木町に来た東急東横線の新車
昼休みの一時
昭和34(1959)年
冨澤益巳氏提供 横浜駅前
消えてしまった磯子屏風ヶ浦海岸
昭和33、34(1958、59)年頃
菊池富士男氏提供
桜木町に来た東急東横線の新車
昭和48(1973)年
板倉幸弘氏提供


地球を撃つ男 横浜ヨットクラブ入口 海苔すくい
地球を撃つ男
塩田修氏提供
中区竹之丸の自宅
横浜ヨットクラブ入口
昭和35(1960)年
大島規義氏寄贈
海苔すくい
永森邦雄氏提供
金沢区芝町


マリンタワー展望台から横浜港東部及び山手方面を望む
マリンタワー展望台から横浜港東部及び山手方面を望む
昭和36(1961)年頃
世安一人氏提供


街角
街角
昭和32(1957)年頃
横田修作氏提供
中区日ノ出町
風を切ってロケットコースター
風を切ってロケットコースター
昭和39(1964)年
平山康男氏提供
反町公園
悪い子
悪い子
昭和34(1959)年頃
平田美子氏提供
カトリック山手教会内
紙芝居と子供たち 港橋より関内を望む
紙芝居と子供たち
昭和47(1972)年
相澤詔二氏提供
港橋より関内を望む
昭和32(1957)年
竹中亮氏提供


舗装された坂道 市電廃止の思い出に
舗装された坂道
昭和39(1964)年
亀山洋子氏提供
新鶴見操車場
市電廃止の思い出に
昭和46(1971)年
福嶋良子氏提供
滝頭車庫


横浜駅東口ホール 最後の氷川丸
横浜駅東口ホール
昭和31(1956)年
長野洋士氏提供
最後の氷川丸
昭和35(1960)年
金子武司氏提供


  取り壊し前の平和球場入口
取り壊し前の平和球場入口
昭和50(1975)年頃 斎藤高子氏提供


  祝!1万人達成
 おかげさまで企画展示「横浜ノスタルジア」へは、会期中に延べ1万1707人の方が足を運んでくださいました。ありがとうございました。
 ちょうど1万人目の方は、東京都世田谷区からお越しの松崎さんご夫妻。テレビ朝日の「ちい散歩」で取り上げられたのをご覧になり、横浜までいらしたとのこと。当館の斎藤多喜夫より記念品を贈呈いたしました(写真)。
 
 
 
 
−常設展示より−
120年前のアイスクリーム製造器

   今年の夏は猛暑でしたが、常設展示では暑い夏にふさわしい展示資料が加わりました。およそ120年前の「手回し式」アイスクリーム製造器です。

  アイスクリーム発祥の地・横浜
 横浜はアイスクリーム発祥の地です。慶応元(1865)年に、居留地103番地(現在の山下町103番地)辺りで、アメリカ人リズレーが開いたアイスクリーム・サロンが、記録で確認できるアイスクリームの製造・販売の第一号です。
 リズレーは翌年横浜を離れてしまいますが、明治時代になると、日本人もアイスクリームの製造・販売を手がけるようになります。『横浜沿革誌』(明治25年発行)の明治2年6月の項には、次のように記されています。
「馬車道通常盤町五丁目に於て町田房造なるもの氷水店を開業す、当時は外国人稀に立寄、氷、又はアイスクリームを飲用す、本邦人は之を縦覧するのみ(中略)之を氷水店の嚆矢とす」
 これが日本人によるアイスクリーム販売の最初の記録です。初めて見るアイスクリームに当時の日本人はなかなか手が出なかったようです。現在、馬車道にアイスクリーム発祥の地の記念碑があるのは、この記述がもとになっています。

手回し式アイスクリーム製造器
1 手回し式
アイスクリーム製造器

伊藤武氏寄贈
当館常設展示

アイスクリーム製造器の広告
2 アイスクリーム製造器
の広告

村井弦斎『食道楽 春の巻』
(明治36年発行)より
横浜開港資料館所蔵
稲生文庫
家庭に広がるアイスクリーム
 さて、アイスクリームの歴史をひもとくと、初期のアイスクリームは贅沢品で、手軽に食べられるものではありませんでした。一般の家庭に普及するきっかけとなったのは、1846年の「手回し式アイスクリームフリーザー」の発明です。この発明によって、家庭でも簡単にアイスクリームを作ることができるようになりました。(社団法人日本アイスクリーム協会『アイスクリーム図鑑』)
 今回紹介する資料は、アメリカ製の手回し式製造機です。寄贈者の伊藤武氏(故人)がウィスコンシン州ミルウォーキーで入手したもので、上部の刻印から1889年12月製のものとわかります。木桶と中筒のあいだに氷と食塩、中筒には牛乳・生クリームを入れ、ハンドルで撹拌するとアイスクリームができあがります。
 明治時代の後半には、こうした手回し式の機械が輸入・販売されており、日本の家庭でも使用されるようになっていました。当時の広告にうかがえるように、アイスクリームは洋風の生活への憧れとともに普及していったのでしょう。

(青木祐介)

  ミュージアム・クイズラリー
ヨコハマ2007
 上で紹介したアイスクリーム製造器は、夏休みの「ミュージアム・クイズラリーヨコハマ2007」のクイズにも登場しました。
 このクイズラリーは神奈川県立歴史博物館が主催し、当館をはじめ関内・山手地区の博物館・資料館16館が集まって、毎年夏休みに開催しているもので、小中学生を対象に、各館がバラエティーに富んだクイズを出題しています。
 子どもたちも興味津々だった120年前のアイスクリーム製造器。当時のアイスクリームはいったいどんな味がしたのでしょうか。
 
 
 
 
ジェラール工場跡地を掘る

ジェラール水屋敷地下貯水槽
1 ジェラール水屋敷地下貯水槽
(国登録文化財)

 横浜都市発展記念館と(財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターでは、2005(平成17)年7月と2007(同19)年2月に、ジェラール水屋敷地下貯水槽(横浜市中区元町1―77)の周辺道路の発掘をおこなった。
 貯水槽の位置する元町1丁目77番地は、明治時代にフランス人実業家ジェラールが工場を構えていた場所である。ジェラールはこの場所でフランス瓦や煉瓦(れんが)の製造をおこない、山手の湧水を堀川まで導いて船舶に供給していた。
 調査では、現存するジェラール水屋敷地下貯水槽(図1)に接続する埋設管の確認を目的として、周辺道路の七箇所を調査した(2005年の調査については、『横浜都市発展記念館紀要』第3号掲載の概報を参照のこと)。ここでは、二度の発掘で出土した遺物のなかから、ジェラール工場製とみられる二種類の資料を紹介したい。

  溝入り土管
溝入り土管の検出状況
2 溝入り土管の検出状況 (撮影:横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

 2005年の調査では、貯水槽北側の道路で、外側に溝の入った円形土管の列が検出された(図2)。これまで溝の入った素焼きの陶片が、フランス領事館・領事公邸跡(現・フランス山)や山手80番館跡(現・ブラフ80メモリアルテラス)の出土遺物で確認されていたが、完形品が出土したのは初めてのことである。敷設状況から、隣接する貯水槽(明治10年代築造と推定)に先がけて埋設されたものと判断された。
 また2007年の調査では、方形の溝入り土管も発見され、円形と方形の二つの溝入り土管が実用化されていたことが判明した。ただし、方形土管は転用された形跡があり、もとは地中に埋設する導水管ではなく、洋館の煙突内部に貼りつける煙道管として製造されたと思われる。
 溝入り土管については、前出の紀要第3号掲載の拙稿で詳しく紹介したが、外側に溝の入った形状は、機械を利用した押し出し成形によるものである。当時の日本では、土管の成形は木枠を用いた職人の手作業でおこなっており、機械成形の土管はきわめて珍しい。またジェラール工場の内部を紹介した銅版画に、同様の溝入り土管の成形機が描かれていることから、出土した二種類の溝入り土管はジェラール工場製であると考えている。

新発見のジェラール刻印煉瓦
3 新発見の
ジェラール刻印煉瓦

(撮影:横浜市ふるさと
歴史財団埋蔵文化財
センター)

新型のジェラール煉瓦
 ジェラール工場でつくられた煉瓦には、有孔煉瓦と無孔煉瓦の二種類が知られている。有孔煉瓦が機械による押し出し成形で作られるのに対して、無孔煉瓦はプレス成形によるもので、表面には月桂樹をあしらった美しい刻印が施されている。
 今回、出土遺物の中から、これまでに知られていない刻印をもつ無孔煉瓦が発見された(図3)。完形品でないのが残念であるが、ジェラールの名前の一部とみられる”ARD”の文字が確認でき、刻印プレートを止めるネジ頭の跡がはっきりと残っている。また従来の刻印は片面にしかなかったが、これは表と裏の両面に刻印がプレスされている。
 ジェラール工場の刻印をもつ無孔煉瓦は発見事例が少なく、使用実態についても不明な点が多い。こうした刻印煉瓦は、どの程度流通したのか。また刻印の違いによって製造年代の違いはあるのか。謎は深まるばかりである。

 以上、新発見となる二種類の遺物を紹介した。ジェラールに関しては、フランス瓦や煉瓦への関心が高いながらも、これまで工場跡地の十分な調査はなされてこなかった。今回の新発見から「近代遺跡」としての重要性はさらに高まったといえるであろう。
 最後に、今回の調査は元町クラフトマンシップ・ストリート、(有)ユー・エス・シーのご提案により実現にいたった。調査へのご支援に感謝いたします。
(青木祐介)
 
 
 
[寄贈資料の紹介]
平成19年1月以降に新しく寄贈していただいた資料です。(敬称略)
  寄贈資料名 点数 寄贈者
算盤 1 笠井 重義
戦前の教科書類 3
全国名所絵葉書等(昭和) 96
米軍軍票 12 天野  進
日本貿易博覧会記念券(昭和24年) 7 三浦 禄郎
さよなら横浜市電乗車券(昭和47年) 1
『全国遊覧案内地図』(昭和11年) 1 ノ沼午郎
横浜名所絵葉書等(昭和) 10
横浜開港100年記念国際仮装行列写真(昭和33年) 1 西野  智
10 広瀬始親氏撮影スライドファイル 2
11 横浜市内風景写真(昭和35年) 13 大島 規義
12 横浜市内絵葉書(大正・昭和) 24 小林 信子
13 記念行事関係絵葉書(明治・大正・昭和) 3 白戸 道子
14 関東大震災直後の市内被害写真 24 河西 忠雄
15 開港100年祭記念鉛筆(昭和33年) 1 早川真理子
16 開港102年みなと祭記念乗車券(昭和35年) 1
17 横浜市内撮影8ミリフィルム(昭和40年代) 1 座間 泰雄
18 横浜市内撮影写真アルバム(昭和50年代) 1
19 横浜市内風景写真(昭和30年代) 29 吉沼  晃
20 電気時計(昭和10年代) 1 田中 祥夫


 
編集後記
 久しぶりの『ハマ発Newsletter』をお届けします。春の企画展示では「横浜ノスタルジア」と題して、昭和30年頃の横浜の街と人びとを撮影した写真を紹介しました。そして、この秋の企画展示「写された文明開化」では、時代をさらにさかのぼり、明治初期の横浜や東京の街と人びとを撮影した貴重な写真を紹介します。今日の日本人と共通するもの、あるいは今日の日本人が忘れてしまったものを、写真の中に探してみてください。