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第8号 2007年1月
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ごあいさつ 「戦争を知らない子供たち」という歌が流 行(はや)ったことがあります。昭和46(1971)年のことでした。作詞者も作曲者兼歌手もわたしと同年代ですが、「ちょっと違うんじゃないかな」と思ったのを覚えています。「団塊の世代」などと、数が多いことだけで特徴付けられるのも不愉快ですが、「戦争を知らない」ことを”売り”にするのもいかがなものか。命からがら戦地から引き揚げてきた父親たちと、「銃後」の生活に耐えた母親たちから未来を託された子どもたちなのですから。空襲や接収を経験した地域とそうでない地域では感じ方が違うのかもしれません。 朝鮮戦争が勃発し、日本が特需景気に沸いた昭和25年、横浜国際港都建設法が制定されました。33年には開港百年祭が開催され、これを記念して『横浜市史』の刊行や新市庁舎の建設が進められました。人々はようやく戦争をも歴史的な出来事として相対化し、開港以来の歴史を振り返りながら、未来を構想しようとしたのでしょう。「団塊の世代」も小学校高学年に達していました。 2月から当館で開催される企画展示「横浜ノスタルジア―昭和30年頃の街角―」は、そうした体験を遺伝子を通じて受け継いでいる若い人々に対しても、”歴史の中で生きている”ことを実感させてくれることでしょう。 |
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斎藤多喜夫 |
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横浜 ノスタルジア ―昭和30年頃の街角― |
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広瀬始親(ひろせもとちか)氏は昭和30年前後に集中して横浜市中心部の情景をカメラに収めた。そのモノクロの写真には、当時の横浜の街が放っていた強烈な光と影が写しとられている。広瀬氏の写真を見ていると、その時代に青春を送った人、働き盛りだった人はもちろん、その頃は生まれていない世代であっても、「懐かしいなぁ」という郷愁の念、ノスタルジアが湧いてくるのではないだろうか。 この頃の横浜は敗戦の影を色濃くひきずりながらも、それにおし潰されることなく、人々がたくましく、表情豊かに生きていた時代であった。 |
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接収地が広がる横浜 ― Occupied Japan |
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昭和20(1945)年8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが兵士1200人を従えて進駐し、横浜の占領は始まる。総司令部GHQはまもなく東京に移ったが、横浜には沖縄を除く日本全土の占領を担当することとなるアメリカ第八軍の司令部が置かれ、半年後には9万人を越える規模の占領軍が市内各地に展開した。 市中心部はその年の5月の大空襲ですでに焼け野原となっており、わずかに残った建物もほとんどが進駐軍に接収された。横浜税関はアメリカ第八軍司令部、伊勢佐木町の松屋百貨店は病院、野沢屋はP X(米軍購売部)、不二家は将校用のヨコハマ・サービス・クラブ、オデヲン座はオクタゴン・シアターとなり、日本人はオフリミット(立ち入り禁止)となった。横浜は日本占領の拠点となり、特に中区は昭和21(1946)年の段階で区域の35%が接収されていた。 |
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昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約の発効によって独立が回復されると、接収されていた土地・建物の一部が返還されはじめた。関内地区は昭和27年11月に接収解除となったが、写真1はその一年あまり後の住吉町である。これは横浜公園の横から住吉町を撮影したもので、後方に見える馬車道まで、ひたすら空き地が広がっている。「無断出入禁止」の立札と「在日米軍バス停留所」の標識がぽつんと立っている。手前の通りはバスのルートでもあり、当時米軍がサード・ストリート(3rd Street)と名づけた現みなと大通りである。 本牧では依然としてエリア1、エリア2と呼ばれた米軍住宅地区が広がっていた。写真2はエリア1の住宅地の前を行くお馬流しの行列である。お馬流しは本牧神社に伝わる神事で、茅(かや)でつくった馬に災厄を託し本牧の海に流す祭りである。お馬様が入った輿(こし)を運ぶ宮司の姿と「フェンスの向こうのアメリカ」の対比が印象的である。 |
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復興へのエネルギー |
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朝鮮戦争勃発にともなって横浜は国連軍の兵站(へいたん)基地となり、接収が続いた反面、特需ブームにより経済的復興をとげていく。昭和29(1954)年は日米和親条約調印百周年にあたり、開国百年祭が行われた。横浜市は昭和31(1956)年には政令指定都市となり、人口も117万人を超えた。さらに昭和33(1858)年の横浜開港百年記念事業として、本格的な市役所の建設、市民病院や文化体育館の建設、横浜市史の編集事業などが実施された。昭和33年5月10日には横浜公園平和球場で市民3万5千人が参加して記念式典が挙行された。写真4は開港百年祭にあわせて行われた吉田橋の渡り初め祝典の模様である。 写真5は昭和34年4月に着工した根岸線の工事進捗状況をとらえた貴重な一枚である。撮影されたのは昭和36(1961)年8月、背景には2年前に竣工した横浜市役所が写り、手前には港橋と派大岡川を収める。 この後高度経済成長期に入り都市整備が進む中で、派大岡川をはじめ市中心部の川は埋め立てられて道路となり、昭和30年前後の横浜の面影はだんだんと街から消えていく。 |
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(横浜開港資料館 伊藤泉美) |
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*写真はすべて広瀬始親氏撮影寄贈・横浜開港資料館所蔵 |
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ジェラールの故郷を訪ねて ―墓に刻まれた来日・離日の記録― |
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ランス訪問 横浜居留地を舞台に、フランス瓦の製造や船舶給水などの事業を展開したフランス人実業家アルフレッド・ジェラール( その成果によると、ジェラールは1837年、パリの東北にあるランス( 当館でも昨年の企画展「地中に眠る都市の記憶」を機に、ジェラールが製造したフランス瓦や煉瓦について調査を進めている。この春、わずか一日の短い滞在であったが、ジェラールの故郷ランスに赴く機会が得られた。 |
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ジェラール財団にて 私が訪問したのは、ジェラールの遺産をもとに設立されたランス農業サークル( 現在、サークルの活動は農業会館( 蔵書を拝見しながら、私はジェラールの知名度がランスではどの程度なのか尋ねてみた。彼らによると、ジェラールは地元の農業発展に貢献のあった技術者として、とくに農業組合の関係者によく知られているのだという。瓦製造や船舶給水で知られる横浜とは、ずいぶん状況が違っていた。 確かに、ランスはシャンパンの生産地として知られるシャンパーニュ地方を代表する都市であり、街の中心部を少し離れれば、ブドウ畑が一面に広がる光景が立ち現れる。「どうして君は瓦に興味をもつようになったんだ?」彼らの素朴な疑問も、もっともなことであった。 残念ながら、図書室では私が求めていた資料には出会えなかったが、彼らと一緒に訪れたジェラールの墓前で、驚きの発見をすることになった。 |
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墓石に刻まれた日本語 会談後、私たちはランス近郊のブザンヌ町( 開港資料館が紹介した墓の古写真をもとに、ジェラールの墓所を突き止めたのは、西堀昭氏である(西堀昭「ふらんす瓦のジェラール」『有鄰』第370号)。西堀氏は、1997年に開催されたジェラールの墓前祭にも招かれ、ランスの人々の前で横浜とジェラールとの関わりを話された。ギュヤール氏は、そのときの主催者の一人である。 ジェラールの墓は、墓地のなかでもひときわ異彩を放っていた。墓の正面には石の鳥居が建ち、周囲には三基の石灯籠が置かれていた。ジェラールはこれらの石材を日本から持ち帰ってきたのでは、とギュイヤール氏はいう。確かに鳥居は、日本の神社で一般的な明神鳥居の形式である。灯籠も含めて彼の日本美術コレクションの一部だったのだろうか。ジェラールの日本趣味をかいま見る思いであった。 墓石の前面に刻まれた墓誌には、アルフレッドの祖父の代からのジェラール一族の名前が刻まれていた。そして足元の石棺に視線を落として、私は驚いた。その表面には、日本語ではっきりと次のように彫られていたのである。
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ジェラールは明治11年に帰国? この日付が、ジェラールが横浜港に降り立った日と横浜港から旅立った日を示すことは疑いないであろう。帰国後何らかの機会に日本の職人に彫らせたのであろうか。墓に刻ませるほど、横浜での日々がジェラールにとって特別な意味を持っていたことを物語っている。 ジェラールの来日・離日の時期については、これまで決定的な資料を欠いていた。ディレクトリー(外国人住所録)の記載から、1863年には来日していたと推測され、また製造年の入ったジェラール瓦の下限が1889年であること、1891年にランス市に美術品を寄贈していることから、1889―90年頃帰国とする説が有力であった。 彫られた日付をみると、文久3年8月9日(1863年9月21日)という来日時期は、これまでの推測と矛盾はしない。一方、明治11(1878)年という帰国年は、従来の説からはおよそ10年も遡るものである。 じつはこの日付はすでに先行研究のなかで示されていた。当時の外国語新聞を丹念に調べられた澤護氏は、明治11年7月1日にジェラールがパシフィック・メール郵船の船で出港した記録をもとに、ただ一人、明治11年帰国説を唱えていたのである(澤護「アルフレッド・ジェラール―横浜に於ける水屋・瓦屋の魁―」『千葉敬愛経済大学研究論集』第32・33合併号)。 日付まで一致しているのだから、帰国年については決定的と言ってよいだろう。私たちが思っていたよりも早く、ジェラールは横浜を去っていた。その活動はおよそ15年。フランス瓦の製造に関していえば、開始からおよそ5年で横浜を後にしたことになる。 ただし、来日の日付に関してはいまだ裏づけが取れていない。今後は、この新資料の情報を含めて、ジェラールに関する既往の情報の再整理・再検討をおこなう必要があろう。その作業については稿をあらためたい。 ランスでは、ジェラール財団のワルボム会長、ブザンヌ町のギュイヤール氏をはじめ、多くの方の歓迎を受けた。西堀昭氏(横浜国立大学名誉教授)からは訪仏前に墓地についてご教示いただき、また滞在中は加藤耕一氏(パリ第四大学:当時)、RONSIN三好章子氏(日仏友好協会)に通訳などで助けていただいた。皆様に深く感謝いたします。 |
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(青木 祐介) |
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新発見!デ・ラランデ設計の洋館 |
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昨年度、磯子区在住の臼井齋氏から、内外建築関係雑誌の切り抜きを中心とした644点の資料の寄贈を受けた。ここで紹介するのは、その中にあった1枚の洋館の写真である。 この写真(図1)は以前にも、『横濱』Vol.8(2005年春号)掲載の拙稿「西洋館のある街・山手」で紹介したが、これまで知られていなかった新発見の洋館であることには触れず、ドイツ系意匠の一例として紹介しただけであった。そこで、あらためて本誌の紙面を借りて、この写真の分析の経緯を記しておきたい。 わずかな手がかりをもとに 分析の出発点となったのは、写真の裏にあった"Villa Pohl Yokohama"という書き込みと、写っている洋館の建築様式である。 この煉瓦造の洋館ははじめて目にする建物であったが、デザインについては見覚えがあった。神戸の「風見鶏の館」(図2、旧トーマス邸、国指定重要文化財)の設計者として知られ、横浜でも設計事務所を構えていたドイツ人建築家デ・ラランデ(G. de Lalande)の作風と似ていたのである。とくに中央の妻壁にみられる破風曲線は、デ・ラランデが得意としていたもので、彼が設計した他の建物にもよく用いられたデザイ ンである。 しかも、この写真の寄贈者である臼井齋氏の父、臼井泰治氏は、デ・ラランデの設計事務所に製図工として勤めていた。デ・ラランデは1903年5月に来日し、山手にあったドイツ人建築家ゼール(R.Seel)の事務所に入るが、ゼールの帰国後に事務所を継承し、翌1904 年11月には山下町に事務所を移している(堀勇良『外国人建築家の系譜』至文堂、2003年より)。ディレクトリー(外国人住所録)から当時のデ・ラランデ事務所の所員を探ってみると、確かに1907年版以降、"T.Usui"という名前が確認できる。臼井泰治氏のことであろう。臼井氏の名前は、1908年4月にデ・ラランデ事務所が東京に移ったのちも、所員として記載されている。 |
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居住者と所在地に迫る そこで、デ・ラランデが横浜に事務所を構えていた時期で、横浜在住のポール(Pohl)姓の人物をディレクトリーから拾い出してみると、4人の候補が出てきたが、このなかにデ・ラランデとの関係を推測できる人物が1人いた。 それは、ドイツ商社のイリス商会に勤めていたルドルフ・ポール(Rudolf Pohl)である。山下町54番にあったイリス商会の社屋(図3、1907年)を設計したのはデ・ラランデであり、その関係でルドルフの住まいの設計も依頼されたと 考えられるからだ。 続いて、この時期のルドルフの住所の変遷をディレクトリーからたどっていくと、山手127番(1904年版)、山手 10番(1905年版)を経て、1906年版以降、山手125番Bに落ち着く。現地を歩いてみたところ、写真のように前面の敷地と段差があり、背後の低地を隔てて遠方に丘陵地を望む地勢は、山手125番Bがピタリと一致した(図4)。背後の低地は千代崎町、丘陵地は当時「大神宮山」と呼ばれた根岸の丘である。遠景に写る住宅は、北方大神宮周辺の外国人住宅群であろう。 一方、山手125番Bの居住者の変遷を調べてみると、1904年版には "D.Robinson"、1905年版には記載がなく、1906年版からルドルフの名前が登場する。一年の空白は、建物の建設中と解釈することができる。したがって、当初は洋館の建設年代を1904―05年と考えていた。 4 山手125番地Bの所在地 "The Japan Directory 1889"(横浜開港資料館所蔵)付図をもとに作成 |
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建設年代・再考 ところが、ディレクトリーを丹念にめくっていくと、ルドルフの名前は1910年版でいったん消えたあと、1911年版以降、今度は同じ125番Bに夫婦で登場するようになる。 ならば、このときに結婚後の新居として建てられたとも考えられよう。ルドルフが125番Bに住みはじめた1905年頃は、デ・ラランデ事務所も独立したばかりである。むしろ、イリス商会社屋の建設(1907年竣工)でデ・ラランデの腕前を認めたルドルフが、自邸の設計を依頼したと考えた方が自然であろう。この時期、デ・ラランデはすでに横浜を離れているが、1909年には、神戸の分室を拠点として「風見鶏の館」を手がけるほど、事務所の規模も大きくなっていた。1910年版の空白こそ、煉瓦造の洋館を新築していた時期だと考えられるのではないか。 以上が現時点での推測である。洋館の設計者はデ・ラランデ、所在地は山手125番地B、居住者はイリス商会のポール夫妻、建設年代は1909―10年。 残念ながら、建物は現存しない。おそらくは関東大震災で倒壊したと思われる。ディレクトリーではポール夫妻の名前は1921版までは確認できるが、その後、ルドルフはイリス商会を離れたようである。 最後に、貴重な資料をご寄贈くださった臼井齋氏、寄贈を仲介していただいた広島平和記念資料館の菊楽忍氏に、この場を借りて御礼申し上げます。 |
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(青木祐介) |
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[寄贈資料の紹介] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平成18年6月以降に新しく寄贈していただいた資料です。(敬称略)
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編集後記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
あけましておめでとうございます。平成も19年となり、「昭和」も遠い昔となってきました。今回の特集では、昭和30年代にスポットをあてた企画展示の内容を紹介いたしました。みなさまの写真の募集もしております。ついこの前のことのように思われる方も多いかもしれませんが、そろそろ歴史として語り継いでいかなければならない時期が来ているのではないでしょうかと、昭和40年代生まれの私は思います。(岡田) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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