ハマ発Newsletter Vol.6

 
  第6号 2006年5月

観光のヨコハマ
昭和はじめの「地図」の旅
 常設展示より 神中鉄道沿線案内
 にぎわいを取り戻した大さん橋
 ミシン・タイプライター
[寄贈資料の紹介]
 
横浜市鳥瞰図肉筆画(部分)
横浜市鳥瞰図肉筆画
(部分)
吉田初三郎・作
1935(昭和10)年
横浜商工会議所所蔵
ごあいさつ
 江戸時代、外国の文物に触れたければ、はるばる長崎まで行かなければなりませんでした。横浜の開港によって、江戸のすぐ近くに、外国に向かって開かれた窓が出現したのです。長い鎖国の間、好奇心が抑圧されていた人々 にとって、それが興味を引かないわけがありません。開港直後から、江戸の出版業者によって、新開港場の様子を描いた絵図や浮世絵が大量に出版されるようになります。
 開港の翌年、1860(万延元)年閏3月に、当時の売れっ子絵師、橋本玉蘭斎(五雲亭ともいう)貞秀が『横浜土産』という絵本を描いています。やはり当時の売れっ子作家、仮名垣魯文が寄せた序文には、次のように記されています。
 「実地を踏で勝景を眺望(ながむる)は一本の杖にあり、居ながらにして名所を知ること一書の図会(ずえ)に不如(しかず)、画工玉蘭斎主人、こたび南島を歴して繁昌の港を画き、号(なずけ)て横浜土産と称す、未た見ぬ人の枝折(しおり)にせんとの例の婆心(うばこころ)ならんかし」
 横浜のことを「南島」と呼んでいるのはおもしろい表現です。江戸からみて、長崎がはるか南の孤島のようなものだとすれば、横浜は近くに出現した火山島のようなものとしてイメージされていたのでしょうか。
 横浜は開港以来、多数の外来者を受け入れる町でした。主要輸出品の生糸が出回る季節ともなれば、各地から仲買人などの荷主が集まり、外国からもバイヤーがやってきました。世界旅行が盛んになると、東回りと西回りと、世界一周を目指す両方の人々が横浜を訪れ、外国人居留地のホテルが賑わいました。
 横浜という都市は、生まれも育ちも観光地だったと言えるでしょう。  
 
 
 
 
観光のヨコハマ

  土地観光課の新設
 1930年代中頃の日本は、大恐慌の影響から徐々に回復し、全国的にツーリズムが拡がりつつあった。1930(昭和5)年には鉄道省に国際観光局が設置され、翌年には国立公園法が成立するなど、外国人観光客増加による外貨獲得を目的とした、政府による観光事業への取組が始まった。これに呼応して各自治体では、観光施設・ルートの整備を図ったり、映画・ラジオによる郷土番組などの新しいメディアを活用して観光地を積極的に宣伝し、地域振興を図ろうとした。神奈川県でも、湘南公園道路計画、箱根国立公園計画などが1930年代前半から進められていた。1935年から翌年にかけて、東京オリンピックと万国博覧会の1940年開催が具体化してゆくなかで、主要観光地では観光祭が開催され、ホテル・自動車道路などの社会資本の整備・新設が相次ぐなど、観光ブームは急速な高まりを見せていった。
 横浜市は、1935年の復興記念横浜大博覧会を機に観光事業に本格的に着手し、1936年8月に土地観光課を新設した。当時の市長・青木周三は、それまでの緊縮政策を転換し、貿易振興と工業立市の積極政策を打ち出していた。彼は、元鉄道次官という自らの経歴を生かして、当時未だ桜木町止まりであった省線を滝頭方面まで延長し(現在の根岸線)、根岸湾を埋め立てて万国博覧会の第二会場、東京オリンピックの競技場を招致し、この付近を一大行楽地として開発し、さらに付近の高台に郊外住宅地を建設するという、商業地・工業地・住宅地のバランスの取れた都市創りを目指していた。土地観光課は、彼のそうした理想を実現するための牽引役とも言うべき役割を期待されて誕生した。

  横浜市土地観光課(宣伝招致係)事業一覧
  年号は昭和
  横浜市土地観光課(宣伝招致係)事業一覧
  『横浜市事務報告書』(昭和11年〜13年)及び『昭和13年度ニ於ケル横浜観光協会事業概要』
より作成

1 『ヨコハマ』
1  『ヨコハマ』
(加山道之助資料・
横浜開港資料館所蔵)

2『観光のヨコハマ』
2 『観光のヨコハマ』
(横浜開港資料館所蔵)

横浜アピール作戦
 土地観光課には管理係と宣伝招致係の二係があり、前者は市有土地建物・公会堂の管理処分及び永代借地に関する事項を扱い、後者は(1)土地の利用開発に関する事項(2)一般市勢の紹介及宣伝に関する事項(3)観光施設に関する事項(4)内外観光客の誘致及接遇に関する事項(5)宣伝招致の為にする各種催物に関する事項を担当していた(「横浜市庶務規程」)。宣伝招致係の活動は、出版物や映像などを活用したPR(宣伝招致)、イベント開催、観光事業者等を集めた座談会・講習会の開催、旅行団・視察団の案内などに分かれる【表】。土地観光課は、これらの事業を1937年に発足した横浜観光協会と連携して実施していくが、とくに力を入れていたのは、観光地・住宅地・工場地としての横浜市の魅力を、小冊子・ポスター・案内本・映画・展示会など様々な媒体を通して内外にPRすることであった。
 【写真1】は週刊で発行されていた雑誌で、創刊号から11号までが確認されている(1937年2月25日〜5月6日)。この雑誌では、近代日本文化発祥の地として多くの史跡を持つ横浜の魅力が繰り返し語られている。また土地観光課は、1938年3月に『観光のヨコハマ』【写真2】、『文明開化の横浜』という小冊子を同時に刊行している。前者は関内・山手地区を中心とした横浜の観光名所を修学旅行生向けに紹介したもの、後者は三十一にのぼる「もののはじめ」を紹介し、末尾に三つの遊覧コースを掲げている。いずれも、多数の写真を配置し、デザインなどにも意匠を凝らしている。
3『横浜 秋』
3 『横浜 秋』
(横浜開港資料館所蔵)

4「住みよい横浜」
4 「住みよい横浜」
(福岡市博物館所蔵)

 【写真3】は、1938年11月に発刊された『横浜 秋』の一頁である。臨海部の工業地帯の写真を背景に、工業用原料が安価で入手できること、低廉な電力・潤沢な工業用水・優秀で豊富な労働力を活用して生産費低減が可能なこと、さらに水陸交通網が完備して出荷販売に便利なこと、低廉な工場用地が多く、市税免除などの特典が付与されること、などを挙げて、「工場は必ず横浜へ」と呼びかけている。
 【写真4】は、海を臨む高燥地にある郊外の文化住宅を髣髴(ほうふつ)とさせるポスターである。先の『横浜 秋』の「住みよい横浜」と題する欄では、横浜が「頗る景勝に富んで夏涼冬暖」の地であり、電車・バスなどの交通機関、学校・上下水道・塵芥(じんかい)処理・医療機関などの社会資本が充実し、また物価・地価ともに東京よりも安く、その上娯楽施設・運動施設なども相当整備されており、東京近郊では「稀れに見る理想的住宅地である」と謳(うた)いあげ、桜ヶ丘・生麦・菊名・横浜駅裏・山手などの住宅地を写真付で紹介している。この場合、最大のターゲットとされていたのは、主に東京のサラリーマンたち、新中間層の人々であった。

  戦時から戦後へ
 1939年横浜市は第六次市域拡張と同時に大幅な機構再編を行い、観光行政を扱う部門は産業部開発観光係へ引き継がれた。日中戦争が長期化してゆくなか、東京五輪・万博ともに中止となったが、同係では『ヨコハマ案内』『市民ハイキング案内』(1940年)などのパンフレット、案内地図の作成などを続けていた。
 戦後、産業部を引き継いだ経済局や、1961年に発足した横浜市観光協会(現在、財団法人横浜観光コンベンション・ビューロー)を中心に、観光地横浜のPRは続けられ、日本貿易博覧会(1949年)、開国百年祭(1954年)、開港百年祭(1958年)、市制百周年記念の横浜博覧会(1989年)と、周年事業の大規模なイベントも行われ、横浜の集客力は飛躍的にアップした。
 現在、横浜市では、2009年の開港150周年を前にして「観光入込客数4000万人都市」を目標に、横浜の持つ地域資源、特性を最大限に活かし、市民から外国人まで多くの人々を集客して、観光・コンベンションをはじめ、ショッピング、スポーツイベント、文化芸術活動などを活性化させていくための「観光交流推進計画」が策定・推進されている。

(横浜開港資料館調査研究員 松本洋幸)
  参考文献
 
  高岡裕之「観光・厚生・旅行」(赤澤史朗・北河賢三『文化とファシズム』、日本経済評論社、1993年)
横浜市総務局市史編集室編『横浜市史U 第一巻(上)』(横浜市、1993年)
平野正裕「湘南公園道路の構想とその建設」(『茅ヶ崎市史研究』19、1995年)
古川隆久『皇紀・万博・オリンピック』(中央公論社、1998年)

 
 
 
昭和はじめの「地図」の旅

   横浜都市発展記念館の企画展示「昭和はじめの『地図』の旅」では、昭和の 初期に作成されたさまざまな「地図」を公開。当時、日本の玄関の一つであった横浜を出発点にして、都心から郊外へ、さらに日本全国の主な都市や地域へ、「地図」の旅をくりひろげていきます。ここでは展示資料の一部をダイジェストで紹介しましょう。
(岡田 直)
  ※展示の概要は企画展示案内にあります。


 

1 横浜市観光鳥瞰図
  1 横浜市観光鳥瞰図
1949(昭和24)年/田中市三氏寄贈・当館所蔵
 吉田初三郎/作、横浜市役所・横浜観光協会/発行。表題は『よこはま』。終戦から間もない横浜の姿を描いた鳥瞰図。1945(昭和20)年5月の大空襲をはじめ、戦争によって横浜の市街地の大半が焼け野原となった。中心部の長者町や花園橋付近が更地のままになっている。49(同24)年の日本貿易博覧会の開催にあわせて作成され、野毛と反町の二ヵ所の会場が目立つようになっている。

  2 中区土地台帳付属地図「野毛町、宮川町」
2 中区土地台帳付属地図「野毛町、宮川町」
1925(大正14)年/横浜市中区役所寄贈・当館所蔵
 縮尺600分1。「大正十二年九月震災ニ因リ焼失ノ為メ同十四年改調、謄写原本、横浜税務署備付図面」とある。土地の一筆ごとの地番、地目、形態を記した地図を「地籍図」と呼ぶ。今日では各地の法務局で管理されている土地登記簿付属地図(公図)がそれに相当するが、戦前は税務署で土地台帳付属地図として管理されていた。本図は横浜市中区計90枚のうちの1枚。図幅中央にある「陸軍省用地」(黄色囲み)には横浜憲兵隊が置かれた(現ウインズ所在地)。 

  3 京都名勝鳥瞰図
3 京都名勝鳥瞰図
1928(昭和3)年/大場キソ氏寄贈・横浜開港資料館所蔵
 鉄道省・京都府/校閲、日本旅行協会/編纂・発行。この年、天皇の即位の礼が京都でとりおこなわれた。市街地の南端に門のようにそびえる京都駅から天皇の行列は京都御所へ向かった。

4 新潟県鳥瞰図
  4 新潟県鳥瞰図
1931(昭和6)年/当館所蔵
 新潟県案内発行所/発行。表題は『上越線全通新新潟県案内』。1931(昭和6)年、群馬県から新潟県に抜ける日本最長(当時)の清水トンネルが完成し、上越線(高崎−宮内)が全通した。東京から新潟へは、これまで長野を廻る信越本線が利用されてきたが、高崎から上越線を経由することによって所要時間が約4時間短縮された。この図はそれを記念して作成されたもので、清水トンネルが中央下に描かれている。

5 水野旅館を中心とせる博多名所遊覧図絵(部分)
  5 水野旅館を中心とせる博多名所遊覧図絵(部分)
1927(昭和2)年/当館所蔵
 吉田初三郎/作、観光社/発行。表題は『博多名所遊覧御案内』。博多は古代より栄えた港町である。1889(明治22)年、那珂(なか)川の対岸に発達した城下町の福岡とともに一つの市を形成することになった。市名をどうするかもめたが、「博多市」ではなく「福岡市」となった。代わりに鉄道の駅が「博多駅」となった。

 
 
 
−常設展示より−
神中鉄道沿線案内

神中鉄道沿線案内 神中鉄道沿線案内
当館所蔵

行楽地開発の夢
 現在の相模鉄道の起源は、大正6(1917)年に瀬谷(せや)村の小島政五郎らが中心になって設立した神中(じんちゅう)鉄道株式会社に遡る。翌年5月現在で、小島の300株を含めて瀬谷村の住民が1000株余、鎌倉郡全体で1300株余、高座郡1500株余、横浜市1100株余の出資があった(横浜開港資料館所蔵中丸定夫家文書による)。地域密着型の企業だったことがわかる。
 大正15年に二俣川〜厚木間が開通、折しも横浜は関東大震災の被害からの復興の途上にあり、その資材として相模川の砂利を輸送して復興に貢献した。昭和8(1933)年には念願の横浜駅乗り入れを果たした。ここで紹介するのは、その年に刊行された沿線案内であると思われる。
 神中鉄道も他の私鉄各社と同様、沿線で住宅地や行楽地の開発に努めた。案内の裏面にはその説明があり、「文化住宅地」として鶴ヶ峰・二俣川一帯を「土地高燥、風光絶景」と宣伝している。図には瀬谷の南方にも住宅地の記載がある。
 行楽地としては、二俣川・三ツ境(みつきょう)・瀬谷の北部一帯の開発が目指されていたようである。会社が瀬谷で開催する芋掘会には2万人の参加者があると記されている。東野(あずまの)では初茸狩りが盛んだったという。しかし、図に見える「道楽園」「牡丹園」「乳出ノ清水」などはどうなってしまったのだろうか。図中の三仏寺と妙光寺(「妙高寺」とあるのは誤り)は現存するので、両者に挟まれた地域というと、程ヶ谷カントリー倶楽部や米軍上瀬谷通信基地のある辺りである。
 戦時体制下、この地域には海軍横須賀鎮守府瀬谷補給廠(しょう)や大日本兵器株式会社瀬谷工場が存在していた。この地域に行楽地を作ろうとした神中鉄道の夢は、深まる戦時色のなかで、かき消されてしまったのだろうか。
(斎藤多喜夫)

 
 
 
 
 このコーナーでは、市民の皆さんが語ってくださった戦前・戦後の横浜を、写真とともに紹介します。

思い出の写真
写真提供:松井貞雄氏


思い出の写真
 老いた今日、写真のアルバムを整理していると、23才当時の思い出の写真が目に止りました。昭和30年夏、横浜市中区海岸通り横浜税関裏に有る東西上屋倉庫の雨漏り修理に来て、トタン屋根の上から写した全国で只一枚の写真。
 後方に見えるのは山下大さん橋ふ頭で、そのさん橋に接岸して煙突から煙りを出しているのが蒸気大型貨物船と大型客船だと思う。手前に見える象の鼻の様に出ている堤防の内側には、大型船から色々な荷物を順番に待つ小船が沢山浮いている。小船は荷物を積み替え、今は無い桜川や、大岡川、帷子川沿いに昇り、石炭、砂利砂、食料を川の端に有る問屋やお店に降ろして来る。
 屋根の上で金づちとバールを持っているモデルは俺です。22才の時群馬の片田舎から出て来て、当時は職が無く一年浪人。やっと職に付いた板金屋根の見習いで、まだ腕は半人前。親方の所に弁当持参で働き一日300円、真面目に働いても月8100円位、商売道具を一丁ずつ買う為、贅沢(ぜいたく)も出来ず金も無く、針も持てず作業ズボンも買えなかった俺。ご覧の通りの穴開きズボンを履いていた。
 屋根をはがすと倉庫の中はイワシの缶詰や鯨の缶詰が、高さ10メートル幅30メートルと山ほど積んであった。中を見ると上の方には頭の黒いねずみが食べた空き缶が沢山有った。丁度写真機を持っていたので「はいポーズ」。これが重要な記念写真になった。
(横浜市戸塚区 松井板金資材株式会社・代表取締役会長 松井貞雄氏)


 1945(昭和20)年の終戦後、空襲による破壊をまぬがれた港湾施設の大部分は、占領軍による接収を受けた。大さん橋も「サウスピア」とアメリカ流に名づけ直され、軍事利用に供された。
 大さん橋の接収が解除されるのは、1952(昭和27)年のことである。写真中の大さん橋にはすでに何艘(そう)もの大型船が停泊し、周辺は、荷役に従事する多くの艀(はしけ)でごった返している。
 にぎわいを取り戻しつつあるミナトの風景と同調するかのように、一職人として出発したばかりの意気揚々とした松井氏の姿が印象的である。
(青木祐介)
 
 
 
 
ミシン
タイプライター

−思い出とともに−

   今回は、当館の新収資料のなかから、ミシンとタイプライターの2点を紹介します。
 ミシンはアメリカ・シンガー社製の足踏みミシンで、いわゆるシンガーミシンとして親しまれたものです。日本では明治の末から、シンガーミシンの輸入・販売が おこなわれていました。このミシンは、製造番号から1926年にスコットランドのクライドバンク工場で製造されたものとわかります。
 タイプライターは、アメリカ・レミントン社製の英文タイプライターで、これも製造番号から1926年製と思われます。同社は、1874年に世界初のタイプライターを販売したことで知られていますが、私たちが普段お世話になっているパソコンのキーボードのキー配列も、同社のタイプライターから始まったものです。
 これらの資料をご寄贈くださった保土ヶ谷区在住の大倉文雄氏・禮子氏ご夫妻からは、資料にまつわる思い出を語っていただきました。資料とあわせて紹介いたします。時代とともに歩んできた資料の来歴もまた、資料に刻み込まれた歴史的価値のひとつだからです。
(青木祐介)

シンガー社製ミシン
シンガー社製ミシン

疎開して空襲を逃れたミシン
 昭和の初め、父が母と結婚する際贈ったシンガーミシンです。当時、日本で手に入る中では最高級品で、数台の中の一台だったと聞いています。
 昭和19年、住んでいた家が建物強制疎開のため立ち退きを余儀なくされ、母は父からもらった大切なミシンを、何とかして残したいと思ったようです。ところが戦時中は貨物を送るのは困難だったので、私が従兄弟と二人で父の郷里(山梨県四方津(しおつ))に運ぶことにしました。たいそう重いので金属部分は分解し、大きいものは見つからないようにして列車に載せ、二度に分けてなんとか運ぶことができました。
 その後、私たちが住んでいた借家は大空襲で焼失してしまい、わずかな荷物が残っただけでしたが、苦労して田舎に運んだミシンは焼失せずにすみました。
(大倉禮子氏談)

レミントン社製タイプライター
レミントン社製
タイプライター

(いずれも写真提供:
土肥原洋美氏)

アルバイトの友だったタイプライター
 このタイプライターは、私が戦後間もなく中古で買ったもので、中古品といっても当時は輝くような新鋭機だった。
 当時、私は旧制高校の学生で、学業に使うよりもアルバイトに使う方が多かった。当時の学生アルバイトの一つに謄写版印刷があり、主として大学のゼミの教材を作成した。原本が手に入らないので、原紙をタイプでたたき、謄写版で複製した。なかには数百ページの教科書一冊まるごと複製というものもあった。こうなると一人では到底間に合わない。タイプを持っている友人を仲間に入れて製作した。
 謄写版印刷は結構繁盛した。おかげで大学受験には二人とも失敗して浪人したけれど。タイプをまともに学業に使ったのは大学に入ってからで、卒業論文が英語だったので、このタイプは大いに活躍した。
(大倉文雄氏談)

 
 
[寄贈資料の紹介]
平成17年9月以降に新しく寄贈していただいた資料です。(敬称略)
  寄贈資料名 点数 寄贈者
絵葉書〔開港記念横浜会館 開館記念〕 3 大島 正昭
絵葉書〔大正10年 陸軍大演習記念〕 1 大島 正昭
報知新聞特別付録〔昭和5年 復興の横浜湘南画報〕 1 大島 正昭
タイプライター〔アメリカ・レミントン社製〕 1 大倉 文雄
シンガーミシン〔1926年スコットランド製〕 1 大倉 禮子
横浜税関庁舎新営工事 設計図面 7 田中 正子
『横浜税関陸上設備震災復旧工事概要』(昭和5年) 1 田中 正子
『大正十二年関東大地震 震害調査報告(第三巻)』(昭和2年) 1 山田 利行
松井貞雄自伝『私の人生』(平成16年) 2 松井 貞雄
10 写真〔昭和30年当時の大さん橋〕 1 松井 貞雄
11 写真〔昭和31年の伊勢佐木町〕 4 鈴木 孝一
12 市電通学回数券請求書 1 鈴木 孝一
13 関東大震災時の絵葉書 5 三ツ橋 允
14 昭和初期の横浜の絵葉書 4 三ツ橋 允


 
編集後記
 例年になく寒かった冬が終わり、行楽の季節となりました。異国情緒のあふれる横浜には毎年多くの観光客が訪れます。それは横浜の街と港がかつて世界に向けた日本の玄関だったからにほかなりません。今号は、開催中の企画展示にちなんで、「観光」や「旅」、そして「昭和」をキーワードに誌面の編集を行いました。船と汽車で旅行をしたちょっと昔をしのんでみるのはいかがでしょうか。(岡田)