ハマ発Newsletter Vol.4

 
  第4号 2005年2月

シネマのまち・横浜
五大路子
横浜に映画撮影所ありき
 常設展示より 光降りそそぐモダンオフィス
 御開港横浜大絵図二編外国人住宅図
[寄贈資料の紹介]
 
「風と共に去りぬ」上映のマックアーサー劇場
「風と共に去りぬ」
上映のマックアーサー劇場
1953(昭和28)年
2〜3月
故奥村泰宏氏撮影
常磐とよ子氏所蔵
ごあいさつ
 横浜市歴史博物館が平成5年に実施した聞き取り調査のなかで、舞岡(横浜市戸塚区)の金子欣二さんは、子どもの頃のこととして、「活動写真を見に伊勢佐木町まで徒歩で行った」「子どもの足で一時間くらいかかった」と語っています(横浜市歴史博物館民俗調査報告第一集『谷戸と暮らし―戸塚区舞岡―』)。明治42年生まれの欣二さんが「子どもの頃」と言えば、おそらく大正時代、ちょうど映画館の草創期に当たります。
 当時、舞岡はまだ横浜市に含まれていなかったので、欣二さんはおそらく「伊勢佐木町へ」というよりも、「横浜へ行ってくる」という気持ちで出かけたにちがいありません。日用品は戸塚へ、家具や着物などは藤沢まで買い物に行ったという舞岡の人たちにとって、横浜はそれらの「町」よりさらに規模の大きな「都会」だったと思われます。映画館の存在は、都市横浜の魅力の一つでした。
 それから約80年経った今日、映画はかならずしも映画館で見るものではなく、テレビで見たり、ビデオやDVDを借りてきて見るものとなりました。そのことによってより生活に根ざしたものとなったことは確かです。しかしその結果、一時間歩いて映画を見に行った少年の期待や感動は失われてしまったのではないでしょうか。そうした感動を取り戻すためか、最新技術の映画館が新たにオープンする動きも見られます。
 本号では、映画館が都市横浜の魅力の一つとして輝いていた時代を振り返る企画展示「シネマ・シティ―横浜と映画―」に合わせて特集を組みました。ご一読のうえ、ご来館いただければ幸いです。
 
 
 
 
シネマのまち・横浜

グローバル商品としての映画
 110年前、スクリーンに映写する映画を発明した仏リュミエール社は、映写兼撮影技師を世界各地に派遣して、各国の風俗を撮影させつつ、巡回興行させた。
 映画が伝える情報の質量は、従来の写真の水準を優にこえていた。アメリカの豊かさを理解させるのには、アメリカの消費生活のさまを映す場面があれば一目瞭然であった。映画は地球規模で展開する「商品」となり、文化を伝える媒体として、世界を駆けめぐったのである。
 加えて、20世紀は労働者の世紀でもあった。娯楽を広く提供する手段として、世界は映画を欲した。映画は20世紀最大の娯楽になったのである。

芸術表現としての映画
 風俗・文化・事件を記録する実写にはじまった映画は、まもなく芸術表現の手段として再発見される。
 カメラの移動と撮影対象からの遠近、フレームの設定、撮影時間の長短などの条件設定によって、映画はすぐれて分析的になる。対象をクローズ・アップでとるか、ロングショットでとるか、あるいは下からとるか上からとるかには、映像作家の画面への認識が込められている。そのようなひとつひとつのショットをつなぎ合わせて構成することが、映画固有の表現、〈モンタージュ〉である。
 このような映像表現は、今日では至極当然のものになってしまったが、〈モンタージュ〉は、1910年代アメリカの映画監督トーマス・H・インス、D・W・グリフィスらによって自覚的・先駆的に試みられ、大成したのであった。映像文化発展の基礎理論はハリウッドから始まり、日本では「純映画劇運動」として引き継がれてゆく。

「横浜館」の門柱と映画ののぼりが写った彩色絵はがき
1 「横浜館」の門柱と
映画ののぼりが写った
彩色絵はがき
1912(大正元)年9月
横浜開港資料館所蔵

イタリア史劇の大作「カビリア」
2 イタリア史劇の大作
「カビリア」
(オデヲン座発行の
絵はがき)
1916(大正5)年
松田集氏所蔵

「眠り男」の題で封切られた「カリガリ博士」のスチール写真
3 「眠り男」の題で
封切られた
「カリガリ博士」の
スチール写真
1921(大正10)年
日本公開
松田集氏所蔵

「成金」の一場面
4 「成金」の一場面
東京国立近代美術館
フィルムセンター所蔵

横浜と映画輸入
 横浜と輸入映画を考える上で、忘れてならないのは1911(明治44)年創設のオデヲン座である。山下町の洋画輸入商が経営するオデヲン座については、丸岡澄夫氏の『オデヲン座物語』、『封切館オデヲン座資料集1911―1923』に詳しいが、少なくとも第一次大戦により欧州映画が行き詰まるまで、「カビリア」などの世界に冠たる伊・仏映画の大作の多くはオデヲン座で「封切」られた。その後も世界的に勢力を伸ばしたアメリカ映画の「名金」をはじめとする連続活劇、「カリガリ博士」(オデヲン座では「眠り男」の邦題)などのドイツ表現主義映画を全国に先駆けて上映した。
 映画後進国であった日本に輸入される洋画フィルムは、正規のルートでは基本的に1本であったと思われる。しかし、日本の映画人口の拡大によって、洋画は、中古フィルムや複製フィルムも入ってくるようになる。
 1920(大正9)年、オデヲン座を経営する平尾商会が輸入し、横浜の大正活映に売り渡された米メトロ社の大作「紅灯祭」(レッド・ランタン)は、上海からの闇ルートで、国際活映が入手した中古品「赤灯籠」と対抗し、警察の上映認可を争うこととなった。国活側は、警察当局に納められていた大活の台本を持ち出して引き写したといわれているが、「映画興行権」の概念がなかった日本では、両者同時上映になった。こうした問題は、関東大震災後外国映画会社の日本支店・日本代理店の設置で姿を消し、他方輸入されるフィルム数も多くなっていった。
 震災後、独立経営となったオデヲン座で洋画が封切られる場合、東京・大阪などの一流館と同時公開であった。全国に冠たる「封切」館の地位はなく、複数のフィルムが輸入・配給されるという環境の中で、オデヲン座は封切館として存在したのである。

横浜での劇映画製作
 横浜における劇映画の製作は、1915(大正4)年から翌々年にかけて、賑町(現伊勢佐木町)の劇場である喜楽座によって、座付き役者出演で始まったが、それは喜楽座での上映を基本とするものであった。
 ひろく市場を見越して製作されたものとしては、1918(大正7)年、山下町の東洋フィルム社が作った「成金」「東洋の夢」が早い。監督はトーマス栗原。数年後、大正活映の監督として「アマチュア倶楽部」「葛飾砂子」などの作品を残し、「純映画劇運動」の旗手として日本映画史に名を残す栗原は、ハリウッドでの俳優経験があった。「トーマス」の名は〈モンタージュ〉の先駆者トーマス・H・インス監督からとったものであった。今日、栗原が残した劇映画フィルムは、わずかに「成金」の冒頭の一巻、33分しか確認されていない。
 「純映画劇運動」を迎えるまでの日本映画は、映画監督が「カメラのそばで台本を読み上げる。役者はそれに従って演技する。カメラはある場所に固定されたままで、演技する俳優をフルショットで撮影する」ものであった。映画は「舞台の上で進行するおしばいを記録し、フィルムにかんづめにする」ものにすぎなかったのである(瓜生忠夫『モンタージュ考』)。
 「成金」では自称「日本チャップリン」中島洋好が主役「後藤三次」を演じた。トーマス栗原は、現在確認できる33分間を実に220をこえるショットで構成した。クローズアップなどの技法はもちろんのこと、俳優の顔が次第に薄らぎ、消えゆくと同時に俳優が頭の中で思い描いた映像が現れ、それが消えてゆくと再び俳優の顔が現れるという「二重写し」に近い技法や、町なかを全力で疾走する後藤三次を、おそらくは車上より撮影するという、テンポがあり、スピード感あふれる映像を残した。
 「成金」は、英文の字幕入りである。栗原は、1918(大正7)年11月、東洋フィルム社のブロツキー支配人とともに「成金」ほかを売り込みに渡米した。結果は不首尾であったようである。日本国内で「成金」が公開されたのは、製作後3年を経過した1921(大正10)年である。

  震災後の横浜と映画
 関東大震災ののち、映画会社は、資本のうえからも巨大になり、製作から上映までの一貫体制を強めてゆく。映画理論の研究もすすみ、特定個人の体験が、日本映画に飛躍的な刷新をもたらす余地は少なくなっていった。
 その後横浜は、劇映画の「舞台」として長く存続している。戦前の「かんかん虫は唄ふ」(吉川英治原作)や「霧笛」(大仏次郎原作)、戦後の石原裕次郎や赤木圭一郎のアクションものなど、「横浜と映画」ときいた場合、まず「舞台」としての横浜に思い当たるであろう。
 横浜というまちがもつ価値は、映画やテレビによって今日もなお付加されつつある。しかし、いまや遠い歴史となってしまった、「シネマ・シティ」横浜が輝いていた時代、横浜に足を運ばなくては観ることができなかった「封切」映画や、革新的な映画製作などを紹介し、そこに注がれた人々の情熱を記録として残したい。これが今回の企画展示「シネマ・シティ―横浜と映画―」を企画した動機である。
(横浜開港資料館・平野正裕)
 
 
 
ヨコハマに映画撮影所ありき
〜大正活映と横浜〜
  五大路子

  横浜出身の五大さんは、横浜に生きた人々を題材に数々の舞台を手がけられてこられました。そんな五大さんにとって、横浜の魅力とはいったい何でしょうか。
 横浜というまちは、いつも動いていて、常に新しい命を生みだしている、まるで母胎のような存在だと思います。この母なる大海原に「感性」という釣り糸をたらすと、魅力あるものがたくさん発見できる。そんな感じがいたします。
 私が釣り上げることができるのは、ほんの一部ですが、それだけでも私は横浜というまちがはらんできた命の鼓動を感じることができます。芝居をつうじて、その鼓動をもっと感じ取りたい、いま生きている人たちに伝えたい、そんなふうに思っています。

そして、五大さんが「横浜行進曲」という芝居をつくられたのが1999(平成11)年。これは大正時代に横浜にあった映画会社、大正活映(1)に集う若者群像を描いた舞台ですが、大正活映を選んだ理由は。
 私のふるさと横浜からどんな女性が過去に活躍したのかということにそもそも関心があり、調べていくうちに、まず紅沢葉子(2)という女性に出会いました。横浜第一号の映画女優だったということですが、さらに調べていくうちに、紅沢さんが女優として参加した大正活映の撮影所が、現在の元町公園の場所にあったことを知りました。これは私にとってたいへんなおどろきでした。
 大正活映をとりあげたのは、その跡地に立ったとき、かつてここに集まっていたであろう若者たちの夢を語る姿が、ありありとよみがえってきたからです。
「横浜行進曲」というタイトルは、当時のハーモニカ楽譜からとっています。歌詞がとても新鮮で、感動しました。「横浜行進曲」というタイトルは、彼らにピッタリでした。

  大正活映の映画の特色とは、具体的にどういうものだったのですか。
 ハリウッドで俳優経験のあるトーマス栗原(3)監督を中心とした大正活映では、それまで人気のあった尾上松之助(4)らの歌舞伎出身の俳優による日本映画とは異なった手法で映画づくりを行いました。例えば、据え置かれたカメラの前で俳優が演技するというそれまでのありかたから、クローズアップを用いたりして、人間の自然な表情をとらえたり、海辺を走る女性をいきいきと撮影したり、映画独自の表現をめざしました。
 わずか1年半あまりの期間でしたが、横浜で日本最高レベルの映画づくりに挑んでいたのです。

  大正活映の第1作「アマチュア倶楽部」の由比ヶ浜ロケにて
  1 大正活映の第1作「アマチュア倶楽部」の由比ヶ浜ロケにて〔絵はがき〕
 財団法人川喜多記念映画文化財団所蔵
 前列カメラの左がトーマス栗原監督、ひとりおいて紅沢葉子、カメラの右に文芸顧問谷崎潤一郎、となりが主演の葉山三千子、高橋英一(のちの岡田時彦)。

  トーマス栗原が日本映画の刷新にそそいだ情熱はその後、どのように引き継がれたのでしょう。
 トーマス栗原がアメリカから日本に持ち込んだ最新の技法と、映画にかける強い意志と信念は、大正活映にいた人々、たとえば後年監督となる内田吐夢(5)やスター俳優となる岡田時彦(6)らによって、広く映画界のすそ野まで伝えられたと思いますし、日本映画の礎石をつくったと思います。
 ただ、彼と彼の業績については、横浜ではあまり知られていませんでした。彼が日本映画史のうえに残した偉大な足跡を、もっともっと知らせてゆきたい、そう思います。

  「蛇性の婬」スチール写真
  2 「蛇性の婬」スチール写真 1921(大正10)年9月封切
 財団法人川喜多記念映画文化財団所蔵
 右が「真女児(まなご)」役の紅沢葉子。左が「豊雄」役の高橋英一(のちの岡田時彦)。上田秋成「雨月物語」が原作。

  最後に五大さんが演じた女優・紅沢葉子について教えてください。
 大正活映の映画は残っていませんし、私は紅沢さんには生前会うこともできませんでした。栗原監督の名作「アマチュア倶楽部」や「蛇性の婬」(主演)に出演したあと、帝国キネマ、日活などで脇役をつとめられ、内田吐夢監督の「人生劇場」にも出演しています。戦後は小津安二郎監督の「晩春」、日活の「太陽の季節」「陽のあたる坂道」などにも出ています。
 藤沢市に住むお嬢様、三山美都子さんにうかがったことですが、紅沢さんはいつ、どんな役がまわってきても、演技ができるように日々こころがけ、準備をされていたそうです。決して平穏ではなかったけれども、新しい女の姿を目指して情熱を傾けた人生、女優魂を最後まで燃やし続けた人生だったのだろうと思います。

聞き手/平野正裕
  どうもありがとうございました。
 
  (1)大正活映
 横浜市山下町31番地に本社のあった映画会社。東洋フィルム社の機材を継承して1920(大正9)年創立。文芸顧問に谷崎潤一郎を招き、純映画劇運動の一翼をになった。

(2)紅沢葉子(べにさわようこ)(1901―1985)
 横浜市曙町に生まれる。本名友野はな。平沼高等女学校卒業後、オペラ女優をめざす。大正活映創立を機に横浜にもどり映画界に入る。

(3)トーマス栗原(くりはら)(1885―1926)
 現在の神奈川県秦野市に生まれる。本名栗原喜三郎。ハリウッドでの俳優経験をへて、大正6年ころ帰国。横浜の東洋フィルム社で「成金」等を製作。大正活映で日本映画の刷新に尽力。

(4)尾上松之助(おのえまつのすけ)(1875―1926)
 岡山県生まれ。本名中村鶴三。旅芝居の座長から日本最初の映画スターに。「目玉の松ちゃん」の愛称で生涯千本以上の映画に主演し、映画人気の底辺を広げた。

(5)内田吐夢(うちだとむ)(1898―1970)
 岡山県出身。本名内田常次郎。大正活映入りして俳優に。牧野教育映画、日活と転じて監督となる。「限りなき前進」「人生劇場」「土」、戦後「飢餓海峡」などの名作を残す。

(6)岡田時彦(おかだときひこ)(1903―1934)
 東京・神田生まれ。本名高橋英一。横浜オデヲン座で「名金」をみて感動。映画界への希望を抱き、大正活映に入社。二枚目俳優として活躍する。女優岡田茉莉子(まりこ)の父。

 
五大 路子(ごだい・みちこ)
【プロフィール】
五大 路子(ごだい・みちこ)
桐朋学園演劇科を卒業後、早稲田小劇場を経て新国劇へ。NHK朝のテレビ小説「いちばん星」でテレビの主役デビュー。退団後も多数のテレビや舞台に出演して現在に至る。
一人芝居「横浜ローザ」で横浜文化奨励賞受賞。1999(平成11)年、夢座を旗揚げ、「横浜行進曲」を上演。
 
 
解体前の昭和シェル石油ビル
1 解体前の
昭和シェル石油ビル
横浜市都市計画局
都市デザイン室提供


-常設展示より- 光降りそそぐモダンオフィス

ライジングサン石油横浜本社
 かつて山下町の本町通り沿いに、昭和シェル石油の建物があったことを覚えておられるだろうか。1990(平成2)年に解体されて高層マンションに建て替わったが、日本のモダニズム建築に大きな影響を与えた建築家レーモンド(A.Raymond,1888―1976)の代表作のひとつであり、もとは1929(昭和4)年竣工のライジングサン石油横浜本社であった。

1階事務室
2 1階事務室
『アントニンレイモンド
作品集 1920−35』より

 同社屋はほぼ正方形の敷地いっぱいに建てられた、典型的な都市型建築である。こうした建物は内部にまで十分な採光を得ることが難しい。ひとつの解決策は、建物をロの字形や8の字形にして中庭を設けることである。
 設計者レーモンドは、敷地をロの字形に囲う中庭型の平面を採りながらも、中心部分を中庭とはせずに建物内に取り込み、そこにメインとなる事務室を配置した。そして事務室の天井には全面的に二重のガラス屋根を架け、柔らかな自然光が頭上から降りそそぐ明るいオフィス空間を作りだしたのである。
 このトップライトのアイデアは、共同設計者であるフォイエルシュタイン(B.Feuerstein)が持ち込んだものとされている。フォイエルシュタインが来日前に関わっていたパリ・アールデコ博の劇場(オーギュスト・ペレ設計、1925年竣工)の天井構成に類似しているからである。
 確かに、ペレの作風を好んだレーモンドが、フォイエルシュタインを自らの事務所に招いたといわれる。しかし、ここではむしろ、トップライトという採光の手段が平面計画上、そして空間演出上、都市型建築にとってきわめて有効であったという与条件の存在に注目したい。光につつまれたモダンオフィスの空間は、都市の中だからこそ輝いたのである。

(青木祐介)
 
ライジングサン石油横浜本社(模型)
縮尺:1/75
ライジングサン石油横浜本社(模型)
 上で紹介したように、ライジングサン石油ビルの見どころのひとつは、部屋一面のトップライトから太陽の光が降りそそぐ1階事務室にある。この空間を表現しなければ、建物の魅力の半分も伝えきれない。
 そこで、建物背面側の四分の一をカットして、そこからオフィス内部、そしてガラス屋根の断面を見ることができるようにした。模型を真正面に向けず、柱を囲むように円形に配置しているのはそのためである。
 震災以後の建造物の歴史をたどる「横浜建築探訪」のコーナー。生糸検査所にはじまり、中央図書館、ライジングサン石油横浜本社と三つのストーリーを円形にたどりながら、あわせて模型の細部も楽しんでいただきたい。
 
 
 
 
御開港横浜大絵図二編外国人住宅図
居留地の初期の街並みを精密に描く

1 御開港横浜大絵図二編
外国人住宅図
当館所蔵
  御開港横浜大絵図二編外国人住宅図

   1859年7月1日(安政6年6月2日)横浜が開港され、条約締結国の国民は横浜に居住して貿易に従事することができるようになった。しかし、条約の文言通り神奈川の開港を主張する外国側と、横浜も神奈川の一部だと主張する日本側との対立があり、外国人の居住地が宙に浮いてしまった。
 外国商人たちは、すでに日本人商人が集まっていた横浜に住み始めるが、それは文字通り仮住まいであった。翌年の2月頃、外国側も横浜を開港場とすることに同意し、外国商人たちも晴れて本建築に取りかかる。外国人の居住が許されるエリア、すなわち居留地の制度も徐々に整えられていく。1861年末頃には居留地の図面が作成され、土地区画に地番が付けられた。
 居留地の町づくりが始まる1860年(万延元年)春頃から、江戸の浮世絵師たちが横浜の街並みや外国人の風俗を描き始める。いわゆる横浜浮世絵である。歌川貞秀はその第一人者だった。本姓は橋本、号は五雲亭あるいは玉蘭斎といい、本図では「玉蘭橋本老父」と称している。
 貞秀の計画では、万延元年8月に出版した「御開港横浜之全図」の続編として、街並みを二分し、「外国人乃方を二篇」「自国の方を三篇」として出版する予定であった。二篇が本図に当たることは明らかだが、三篇は残念ながら刊行されなかったようである。
 出版の時期は不明だが、1862年1月12日に献堂式を挙げた天主堂が描かれているので、これを遡らないことは明らかである。他方、同年の春から夏にかけて造成された海岸通りが描かれていないので、この辺りが下限となる。両者を勘案して1862年の早い時期の出版と考えて良いであろう。

「アメリカ一番シメンス・ホール住家」
2 「アメリカ一番シメンス
・ホール住家」と記された
部分(拡大)

 左に示したのは「アメリカ一番」と称される商館の部分である。この頃にはすでに地番が付されていたはずで、この地は二番地に当たるのだが、まだ民間に流布していなかったらしく、それ以前に用いられた国籍別商館番号が記されている。
 「シメンス」は医師のD・B・シモンズ、「ホール」はこの年4月19日にウォルシュ・ホール商会を設立するフランシス・ホールである。両者は宣教師のヘボンらとともに神奈川の寺院で生活していたが、1860年10月横浜に移り、外国人貸長屋の一角に居住、その後ここに地所を獲得したのであろう。シモンズは1861年春、八二番地に土地を得て医院を開業しているので、この図が描かれた時には実際には居住していなかったはずである。
 この図で注目されるのは、「植木畑」の存在である。ホールは貿易商人であるとともに、植物学者でもあった。当然日本の植物を育てていたはずなのである。実地の踏査に基づく精密な描写で知られる貞秀だが、その一端がこんなところにも現れている。
 本図が居留地の初期の町づくりの様子を知ることができるかけがえのない史料となっている所以である。

(斎藤多喜夫)
 
 
[寄贈資料の紹介]
平成16年6月から12月までに新しく寄贈していただいた資料です。(敬称略)
  資 料 名 点数 寄贈者
終戦直後の婦人雑誌附録[一括] 13 加藤晴夫
大正昭和初期の地図[一括] 10 加藤晴夫
野沢屋増築記念の風呂敷(昭和初期) 2 椎野佳宏
“Japan Directory 1899” 1 江上 綏
モーガン関係資料[一括] 21 高橋利郎
「横浜市観光鳥瞰図」(昭和24年) 1 田中市三
横浜博覧会関係資料ほか[一括] 10 田中市三


 
編集後記
 本号は企画展示「シネマ・シティ」の開催にあわせた誌面構成になっています。特集のテーマを「シネマのまち・横浜」とし、また、横浜出身の女優・五大路子さんにはインタビュー形式でご登場いただきました。
 今後は対談や座談会なども行ってみたいと思います。みなさまのご意見・ご感想をどしどしお待ちしております。
(岡田)