ハマ発Newsletter Vol.19

 
  第19号 2013年3月

アメリカ大リーグの来日と職業野球の開幕
〜特別展「ベースボール・シティ横浜」より
クロニクル2008-2012
展示・イベントでふり返るこの5年間
開館十周年を迎えて
昭和はじめのスポーツマン
[寄贈資料の紹介]
 
上山和雄
開館十周年を迎えて
横浜都市発展記念館館長
上山和雄 うえやま かずお

 横浜都市発展記念館は、2003(平成15)年3月に開館してから今年でちょうど10年を迎えます。横浜開港資料館が横浜市における初の本格的な歴史系展示施設として1981(昭和56)年に開館し、さらに開港以前を対象とする横浜市歴史博物館が1995(平成7)年に都筑区に開館しました。開港資料館が内外の高い評価を得、内陸部への歴史博物館建設が本格化した頃、横浜が貿易都市から大都市へ変貌してゆく時代を対象とする施設の必要性が認識され、「よこはま21世紀プラン」で都市発展記念館建設構想が公にされました。
 1929(昭和4)年に建設された歴史的建築物である横浜中央電話局の旧庁舎を、横浜ユーラシア文化館と共用する形で開館するに至りました。二階がユーラシア文化館常設展示室、三階が企画展示室、四階が当館の常設展示室になっています。博物館として建設されたものではないため、不十分な点もありますが、さまざまな工夫を凝らして、横浜の都市形成の歩みを理解いただけるよう、展示をしております。企画展は、ユーラシア文化館と交代で行い、市電や地下鉄などの交通、建築や上下水道、モダン都市の生活など、都市形成と市民生活に関わる多彩な催しを行っております。
 当館の最大の使命は、横浜の都市形成の歩みをわかりやすい形で提示し、現在の、将来の横浜に思いをはせていただくことにあります。そのために、日々失われてゆく都市形成に関わる資料の収集と保存、調査・研究を続けております。広報・出版活動を通じて次第に当館の活動を認知していただき、ご家庭や企業に埋もれ、残されている種々の資料や情報を提供していただいております。
 しかしながら、いくつかの条件に左右され、市民の方々への認知度が十分でなく、入館者数も伸び悩んでおりました。そうした事態に対し、平成22年12月「横浜市外郭団体等経営改革委員会」から、「抜本的な改革」を求められ、それを受けて「横浜市文化財施設のあり方検討委員会」が設置され、2012(平成24)年2月、委員会から「提言」をいただきました。当館に関わる提言は、横浜開港資料館と時代的な区別化を図りつつ連携すること、昭和期に関する資料を豊富に有する市史資料室との連携を図ることの二点にありました。
 私どもは、この提言の趣旨を踏まえ、開港資料館との共同企画展を開催し、「横浜の海七面相」では多くの方々に来館いただきました。市史資料室との連携については、戦中・戦後を本格的に取り上げるべく、市史・開港資料館の協力を得て準備を進めています。さらに学校連携事業を強化し、2011(平成23)年度から多くの小学生が来館するようになりました。
 なお十分ではありませんが、資料の収集、調査・研究をもとに、魅力あるテーマを、魅力的に提示することにより、横浜の都市形成を知っていただく努力を重ねてゆく所存です。

 
 
 
 

 

2008年に発行した開館5周年記念特別号では、 
5周年記念展示「みんなでエキスポ―小さな万国博覧会」 
にあわせて市民から募集した「思い出の品」を掲載し、 
そのほか「常設展示の舞台裏」 
「プレイバック! 企画展―担当者が語る5年間―」などの 
特集記事を組みました。 
開館10周年を迎えた本号では、 
その後の5年間のあゆみを、 
展示・イベントを中心にふりかえってみたいと思います。 

 

 開館5周年の記念イベントでは、アートイベント「日本大通りURANIWA―Labo」(詳細は本誌11号をご覧ください)のほか、市民から募集した鉄道写真展「横浜発―日本を走る/日本発―大陸を行く」を開催しました。会場となった日本大通り駅コンコースでは、このあとも横浜高速鉄道の共催・協力をいただき、みなとみらい線や横浜三塔などをテーマにしたパネル展を開催しています。

夏休み子どもウォーク 特別展「横浜ステーション物語」会場風景
夏休み子どもウォーク 特別展「横浜ステーション物語」会場風景

「横浜ステーション物語」    夏休みイベントでは、親子で参加する歴史散歩「夏休み子どもウォーク」がスタート。初回は山手の西洋館などをめぐり、最後は山手資料館で冷たいアイスクリームをいただきながらのレクチャーでした。翌年からも、神奈川県立歴史博物館のドームや氷川丸のシャフトトンネルなど、普段は見学できない箇所に入れていただきました。
 秋には、特別展「横浜ステーション物語」を開催。市民にとってもなじみ深い横浜駅を取り上げただけあって、大盛況の特別展でした。ミュージアムショップでは、手に入りにくい鉄道関連の展示図録を集め、好評をいただきました。そして関連イベントでは、雰囲気のある旧第一玄関で、戦後の記録映像の特別上映会をおこないました。

 

 2009年度の話題はなんといっても横浜開港150周年。「開国博Y150」を筆頭に、あちこちで歴史をふりかえるイベントが開かれ、私たちも大忙しの一年でした。

「横浜建築家列伝」
企画展「横浜建築家列伝」展示解説 バスツアー「赤煉瓦ことはじめ」
企画展「横浜建築家列伝」展示解説 バスツアー「赤煉瓦ことはじめ」

「西洋館とフランス瓦」    企画展では、春から夏にかけて「横浜建築家列伝」を開催しました。当館が寄贈・寄託を受けている建築資料を中心に、幕末から昭和戦前期にかけての建築家たちを紹介し、大倉精神文化研究所との共催講座や、山手234番館でのパネル展など、館外での関連イベントも実施しました。
 そのほかこの年は、写真グラフ誌「横浜グラフ」の画像全点を公開するWEB展覧会「昭和9年の横浜〜『横浜グラフ』に見る75年前の世相〜」を実施し、絵葉書データベースとあわせて、ホームページ上での資料公開を積極的に進めました。
 年明けには、2本目の企画展として、横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター・三殿台考古館との共催で「西洋館とフランス瓦」を開催。これまでの近代遺跡調査の成果を盛り込みました。関連イベントのバスツアー「赤煉瓦ことはじめ」では、大人気の富岡製糸場や深谷の日本煉瓦製造株式会社の工場施設などをめぐりました。

 

 2010年度は特別展として「モダン横濱案内」を開催し、関東大震災からの復興がすすむ昭和はじめの横浜を舞台に、当時「モダン」と呼ばれた都市の生活や文化を紹介しました。展示解説の最終回では、近年テレビでお目にかかることも増えた日本モダンガール協會の淺井カヨさんと大正愛好会のモガ・モボの皆さんが展示室に登場!戦前にタイムスリップしたかのような華やいだ雰囲気に包まれた展示解説となりました。

「モダン横濱案内」  
ハマにモダンガールあらわる 特別展「モダン横濱案内」会場風景
ハマにモダンガールあらわる 特別展「モダン横濱案内」
会場風景


   この特別展にあわせて、昭和初期の横浜中心部の地図に同時代のさまざまな施設をプロットし、その地点の画像や歴史情報を見ることができる「モダン横濱歴史情報マップ」を作成しました。現在このマップはホームページ上で公開しており、少しずつ地点情報 を増やしています。
 同時に旧第一玄関では、パネル展「モダン都市の風景」「モダン横濱を写す」を開催。この年の事業は、「モダン」をキーワードに展開しました。
 一方、常設展示室では、当館が所蔵する各都市の地理資料を紹介していく「都市シリーズ」をスタートさせ、神戸、大阪、鎌倉の三つの都市を取り上げました。

 

 2011年度は、企画展「昭和の東海道」から始まりました。鉄道や国道などのあらたな「東海道」によって結ばれた、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸のいわゆる六大都市の姿を、当館所蔵の地理資料を中心に紹介しました。
「昭和の東海道」    夏には、常設展示室に展示壁を増設して、コーナー展の規模を拡大しました。横浜開港資料館との共催パネル展「カメラがとらえた昭和30年頃の横浜」や、近世に開発された吉田新田の近代以降の変遷を追った「関外と伊勢佐木の発展」など、ボリュームのあるコーナー展が実施できました。
 続いて秋には、横浜開港資料館・横浜市史資料室との連携事業として、連続講座「『モダン都市』横浜を考える」を開催しました。6名の講師がそれぞれの担当分野からモダン都市横浜の文化・空間についてお話しました。

「横浜にチンチン電車が走った時代」  
特別展「横浜にチンチン電車が走った時代」会場風景 開館9周年感謝イベント・手回しトロッコ
特別展
「横浜にチンチン電車が走った時代」
会場風景


開館9周年感謝イベント・手回しトロッコ
   そして2011年度を盛大に締めくくったのが、特別展「横浜にチンチン電車が走った時代」でした。鉄道ファンや市電を懐かしく感じられる世代の方が大勢来場してくださり、歴代最高の入館者数を記録しました。年配の方がお孫さんの手を引きながら展示室で昔の思い出話をされている姿は、とても印象的でした。
 特別展開催中の3月には、ユーラシア文化館とともに開館9周年の感謝イベントを実施しました。両館の特色を出した企画を用意し、なかでも市電をイメージした手回しトロッコはちびっ子に大人気。いや、大人が乗ってもなかなか楽しめるものでした。

 

 2012年度は、横浜開港資料館と共同で開催した企画展「横浜の海 七面相」で幕を開けました。横浜開港資料館で幕末・明治編を、当館で大正・昭和編を同時に開催するという初めての試みで、二施設を会場とすることで、幕末から戦後までの長い時間の流れをまとまった形で構成することができました。また関連イベントとして企画した「歴史探検クルーズ」には、定員を大幅に上回るご応募をいただき、船を増便して実施しました(それでも抽選に漏れた皆さま、申し訳ありませんでした)。

「横浜の海 七面相」  
歴史探検クルーズ ミュージアムで夏祭り・なつかしの街頭紙芝居
歴史探検クルーズ ミュージアムで夏祭り・
なつかしの街頭紙芝居


 1階では、簡単な展示や講座ができるスペース(ギャラリー)を新設し、夏に「発掘!原三溪のゲストハウス」と題して、埋蔵文化財センターと共同で進めてきた三溪園旧松風閣の発掘調査の成果を、パネルと出土遺物で紹介しました。現地見学とあわせたミニ講座も好評でした。
 同じく夏には、前年度に続いてユーラシア文化館と「ミュージアムで夏祭り」を開催。なつかしの街頭紙芝居では、あの黄金バットも登場!でも今の子どもたちには、街頭紙芝居はきっとおどろおどろしく映ったことでしょう。


   以上、駆け足でこの5年間をふりかえってきました。昨年10月からは、1階ギャラリーで、月に一回、気軽に参加できる形式の「月イチ講座」もスタートしています。これからも来館される皆さまに満足していただけるよう、さまざまな企画を実施してまいります。

(青木祐介)
 
 
 
ベーブ・ルース選手  

アメリカ大リーグの来日と職業野球の開幕
〜特別展「ベースボール・シティ横浜」より

この特集では、
横浜の昭和の野球史を紹介している当館特別展より、
その内容の一部を取り上げます。


 昭和9(1934)年、読売新聞社の企画によって、アメリカ大リーグ選抜チームの来日が実現しました。同社は三年前にも日米野球を主催し、成功を収めていましたが、再来日の主砲ルー・ゲーリッグ選手(ニューヨーク・ヤンキース)に加え、今回、そのメンバーにベーブ・ルース選手(ニューヨーク・ヤンキース)が加わったことで日本中が大騒ぎとなります。
 ベーブ・ルース選手は、この次の年が現役最後となり、すでに晩年を迎えていましたが、アメリカン・リーグで本塁打王を12回獲得し、通算本塁打数は当時の世界記録でした。まさにアメリカを代表する国民的なスター選手で、日本でもその知名度は抜群でした。
 大リーグ選抜チームは11月2日、客船エンプレス・オブ・ジャパン号で横浜港に到着します。横浜からは鉄道で東京へ向かいました。彼らを待ち構えていたのは日本人の大歓迎です。群集にもみくちゃにされながら、大リーグ一行は東京駅から銀座を通り帝国ホテルまでのパレードを行います。
 さて、三年前の日米野球の時とは大きく違う点がもう一つありました。それは昭和7年に野球統制令が制定されたことです。日本にはまだプロ野球はなく、前回は対戦相手として、東京六大学野球の選手を中心に「全日本」チームが編成されましたが、野球統制令により学生選手がこうした興業へ参加することが禁止されてしまいました。
 そこで今回は、学生OBや社会人の選手を集めて「全日本」チームが結成されることになったのです(このチームが後にプロの球団となります)。そして、東京の神宮球場や大阪郊外の甲子園球場(兵庫県)を皮切りに、横浜を含む全国各地の球場で日米野球の試合が行われました。

横浜で行われた日米野球の試合 「日米大野球戦」(ポスター)
横浜で行われた日米野球の試合〜『横浜グラフ』(写真帖)より
昭和9(1934)年/当館所蔵
「日米大野球戦」(ポスター)
昭和9(1934)年
/野球体育博物館所蔵
/読売新聞社・主催。
11月4-5、10-11日、神宮球場にて。


「日米大野球戦両軍陣容」(チラシ) 「日米対抗大野球試合指定席券」「日米対抗大野球試合指定席券」
昭和9(1934)年/山岸茂幸氏所蔵
/読売新聞社・主催。
11月18日、横浜公園球場にて。
「日米大野球戦両軍陣容」(チラシ)
昭和9(1934)年/当館所蔵

   横浜では11月18日、横浜公園球場において開催されました。試合は全米が21対4で全日本を下します。翌日の『横浜貿易新報』の見出しに、「本塁打の雨に『凄げえなあ』の繰言」とあるように、ベーブ・ルース2本、ルー・ゲーリッグ1本を含む計5本の本塁打を放ったアメリカの圧勝でした。
 試合は東京(神宮)、函館、仙台、富山、横浜、静岡(草薙)、名古屋(鳴海)、大阪(甲子園)、小倉、京都、大宮、宇都宮と転戦し、計18回行われました。大リーグ選抜チームはこれら全てに勝利して、圧倒的な力の差を見せつけたのです。それでもこの日米の野球の試合に日本人は夢中になりました。
 12月3日、アメリカ大リーグ一行は横浜港を出航、帰国の途につきます。
 この日米野球の興業としての大成功が、日本にもプロ野球を誕生させるきっかけとなります。日米野球のために結成された「全日本」チームをもとにして、昭和9年の暮れ、プロ球団の大日本東京野球倶楽部が発足しました。同チームは翌年、アメリカ遠征時にその名を「東京巨人軍(ジャイアンツ)」とします。現在の読売ジャイアンツです。
 続いて、甲子園球場を所有する阪神電気鉄道が母体となり、大阪タイガース(現・阪神タイガース)が創立されます。そして昭和11(1936)年、この両チームに名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)、阪急軍(現・オリックス・バッファローズ)、東京セネタース、名古屋金鯱軍、大東京(後にライオン)軍が加わり、計7球団によって日本のプロ野球(当時の呼称は「職業野球」)のペナントレースがスタートします。2年目にはイーグルス、3年目には南海軍(現・福岡ソフトバンクホークス)がさらに加わります。
 ところで、戦前はまだ各球団に本拠地の球場があるわけではなく、現在のようにホームのチームとビジターが対戦するというしくみ(フランチャイズ制)はできていません。学生野球の聖地である神宮球場を職業野球が使用することは認められず、その主な舞台となったのは、甲子園球場と、いずれも昭和12年に開場された後楽園球場と西宮球場(兵庫県)の三つでした。これらの球場を中心に、一日に一つの球場で複数のカードが組まれました。もちろん夜間の照明設備もなく、全て昼間の試合です。

横浜で開催された職業野球の切符横浜で開催された職業野球の切符
(「タイガース対阪急軍・内野席招待券」)

昭和14(1939)年/山岸茂幸氏所蔵
/京浜読売会・主催、読売新聞横浜支局・後援。
3月16日、横浜公園球場にて。ただし、これは公式戦ではなく、関西の四球団(タイガース、阪急、南海、ライオン)によるオープン戦の切符。
「後楽園スタヂアム鳥瞰図」
「後楽園スタヂアム鳥瞰図」
昭和11(1936)年/当館所蔵
/『株式会社後楽園スタヂアム設立趣意書』
(同創立事務所)の付図。


   横浜公園球場は、上記の三球場に比べて収容規模が小さく、恒常的に職業野球が使用することはありませんでした。しかし、昭和14年、数試合のみですが、初めてその公式戦が開催されました。それは8月12日の阪急対イーグルス戦とセネタース対巨人戦、そして、13日のタイガース対阪急戦とイーグルス対南海戦、15日のタイガース対セネタース戦と名古屋対金鯱戦、16日のライオン対阪急戦と巨人対イーグルス戦です。
 ただし、これらの試合が横浜でどれくらい注目されたのかは定かでありません。翌日の新聞紙面にはスコアが掲載されているだけです。当時、横浜公園球場で毎年、開催されていた横浜高等工業学校と横浜高等商業学校(いずれも現・横浜国立大学)の定期野球戦、いわゆる「ハマの早慶戦」に比べると、その注目度は遠く及ばなかったことだけは確かです。
 昭和の前半の時代、職業野球よりも学生野球の方が断然、人気は高かったのです。 

(岡田 直)
 
 
 

昭和はじめのスポーツマン
〜秋田清太郎のスクラップブックより〜

秋田清太郎
 秋田清太郎
(『洛葉ビジット』No.25、
昭和5年3月)
 ハマのスポーツマン秋田清太郎
 昭和戦前期は多くのスポーツ施設が整えられた時代である。程ヶ谷カントリークラブ(大正11年)、横浜公園球場(昭和4年)、横浜市児童遊園(昭和4年、保土ヶ谷区)、元町公園プール(昭和5年)とあいついで近代的な運動施設が開かれる。同時に、バスケットボール、バレーボール、スキーなどの新しいスポーツも市民のあいだにひろがり、多彩なスポーツ大会が開催されるようになった。
 こういったさまざまなスポーツを楽しんだハマッ子のひとりが秋田清太郎(資料)である。秋田は明治32(1899)年横浜に生まれ、大正12(1923)年の大学卒業後に父源七が創業した綿布貿易商・秋田商店に入社した。源七は神奈川県の多額納税者のひとりに数えられ、県会議員にも選ばれた人物である。清太郎は家業を手伝うかたわら横浜基督教青年会(YMCA)の体育部委員をつとめて多様なスポーツをたしなみ、指導もおこなった。
 秋田清太郎は昭和2(1927)年から、家業と趣味――秋田はスポーツのほか映画製作・鑑賞や切手収集など幅広い趣味を持っていた――にかかわる資料250点を1冊のスクラップブックに貼り込んでいる。昭和19年まで足かけ18年のあいだ作成されたこの資料には、みずからが関与したスポーツ大会のちらし・招待券・新聞雑誌記事が多数含まれており、秋田の「スポーツマン」ぶりをうかがうことができる。
 ここでは、現在当館が所蔵するこのスクラップブックから、昭和初期の横浜における市民スポーツのようすを垣間みることにしたい。

 YMCAの一員として
 秋田が所属していた横浜YMCAは、明治17年に設立された横浜の欧米文化受容の窓口とも言うべき組織である。常盤町一丁目(中区)にあったYMCA会館には室内体育館もあわせて設けられており、欧米の新しいスポーツが紹介された(資料)。

「[YMCA]体育部案内」 横浜YMCAの器械体操の様子
 「〔YMCA〕体育部案内」 昭和9年  横浜YMCAの器械体操の様子
(『東京日日新聞神奈川版』昭和5年9月21日付)

 たとえば昭和3年5月にYMCAの体育館で開かれた体育実演会では、横木馬・鉄棒・体育ダンス・吊り環などの器械体操が披露され、秋田はそのうち鉄棒の紹介をおこなっている。YMCAの体育館には「欧米最新式の凡(あら)ゆる室内運動器具」が備え付けられていたのである(「〔昭和三年五月YMCA体育実演会〕プログラム)。
 昭和4年11月13日に開催された競技実演会では、バレーボール、バスケットボール、卓球、「機械運動」(器械体操)がおこなわれた。参加チームは関東学院・第二中学校などの学校団体のほか、秋田の所属する「(YMCA)ビヂネスメンクラブ」も参加している。競技実演会とあるように各種目は一試合のみで、さまざまなスポーツを一般に紹介することが目的であったようである。
秋田清太郎の執筆した「十年一昔」
 秋田清太郎の
執筆した「十年一昔」

『横浜青年』
昭和9年1月号附録

 YMCAは横浜市民体育大会にも出場している。この大会は、都市生活に運動の必要性が論じられていた大正時代の終わりから横浜市がはじめた一大運動会である。昭和3年11月3日、明治節の祝日におこなわれた第5回体育大会の競技種目は、籠球(バスケットボール)、排球(バレーボール)、卓球、柔道、庭球、剣道の6種目だった。少年部、青年部、一般部、中等学校部、専門部の5部に分かれた市民選手3800人が参加(『東京日日新聞』昭和3年11月4日)、秋田も「Y・M・C・Aビヂネスマン」チームの一員として「排球」に参戦している。
 YMCAは冬になるとスキーの指導をおこなった。関東大震災直後のYMCAスキークラブ創設のころ、スキーはまだ危険なスポーツと思われており、「家族と水杯の決心」で参加した人もいたという(秋田清太郎「十年一昔」資料)。しかしクラブでは毎年講習会を開催してその普及につとめ、また首都圏から比較的近い地域にスキー場が続々と開設されて「婦人小供も年末から降雪を鶴首(かくしゅ)して待つ」昭和9年の黄金時代が到来した、と秋田は記している。昭和初期のスキーの急速な流行ぶりがうかがわれる。

 平沼亮三とのかかわり
 昭和の横浜でスポーツマンと言えば、平沼亮三の名が思いおこされるだろう。昭和7年のロスアンゼルスオリンピックで日本選手団長に推されたアマチュアスポーツ界の重鎮である。昭和戦前期には横浜市会議長の任にあり、昭和26年から亡くなる34年まで横浜市長を8年間つとめ 「スポーツ市長」と呼ばれた。
 実は平沼と20歳年下の秋田清太郎は浅からぬ縁があった。ふたりとも慶応大学の出身で母校の運動部と卒業後もつながりがあり、ともに横浜YMCA体育部にかかわっていた(平沼は顧問)。そしてのちに横浜政界に足を踏み入れた秋田は立憲民政党横浜支部で常任幹事をつとめることになったが、そのときの支部長が平沼だったのである。
 昭和5年5月10日、平沼はYMCAの体育大会の開会あいさつで「現代の日本のスポーツは学生のスポーツの観あり、須(すべから)くビジネスメンスのスポーツたらしめよ」と訴えた。昭和初期は六大学野球など学生スポーツが隆盛をきわめた時期だったが、平沼は社会人にもスポーツをひろめることを強く望んでいたのである。このあいさつは『横浜青年』169号(昭和5年5月)に参加記を寄せた秋田によって書きとどめられているが、秋田のように熱心に地道にスポーツの普及にたずさわる者がいてはじめて、平沼の念願は実現されたのである。

※ 掲載図版は全て「秋田清太郎関係スクラップ帳」(当館所蔵)に貼付されている。


 
 
 
[寄贈資料の紹介]
平成24年4月から12月までに寄贈していただいた資料です。(敬称略)
寄贈資料名 点数 寄贈者
 日本貿易博覧会、みなと祭りの横浜市電記念乗車券 8 松本裕志
 震災記念の木盃 3 根岸利恵
 昭和戦前期婦人会関係資料等 27 徳江茂
 横浜市電気局・交通局関係資料 87 樋野禮次郎
 英文タイプライター等 2 池田真
 富岡海水浴場入場券等 5 伊達一雄
 吉田橋の古材で作られた大黒像・恵比寿像 2 磯瑤子
 Y校野球部関連資料 5 花房幸秀


 
編集後記
 今回は特別展で多忙な名編集長のピンチヒッターとして編集を担当しました。本誌の新たなデザインは以前から当館の刊行物を手掛けていただいている高橋健介氏にお願いし、ご覧のとおり魅力的なものに生まれ変わりました。今後とも本誌をよろしくお願いします。(吉)