ハマ発Newsletter Vol.18

 
  第18号 2012年12月

維新の起業家・
高島嘉右衛門(かえもん)
「横浜にチンチン電車が走った時代」展より
開業40周年記念 市営地下鉄のあゆみ
昭和はじめのハマの女学校
― 受験と学生生活 ―
[寄贈・寄託資料の紹介]
 
高島台からみた神奈川停車場
高島台からみた
神奈川停車場

明治20年代
当館所蔵
ごあいさつ
 今から140年前の1872(明治5)年10月14日、日本で最初の鉄道が新橋―横浜間に開通しました。そして同じ年の10月31日、日本で最初のガス会社が横浜で操業を開始し、横浜の街にガス灯がともされました。
 この二つの事業に関わっていたのが、実業家の高島嘉右衛門です。現在では、高島易断の祖としてその名を知られる高島嘉右衛門ですが、鉄道用地の埋立てやガス事業の創業など、明治はじめの横浜のまちづくりに重要な役割を果たした人物であり、その業績は、高島町や高島台の地名となって残されています。
 当館常設展では、横浜開港資料館で開催中の企画展「事業を興(おこ)せ! 近代ヨコハマ起業家列伝」にあわせて、コーナー展「維新の起業家・高島嘉右衛門」を開催しています。
 高島嘉右衛門が関わった事業は、鉄道・ガス以外にも、洋館の建設、洋学校の設立など、多岐に渡っています。その事業の多くは明治初期に集中しており、文明開化期の横浜が、実業家たちにとって多くの可能性を秘めた都市であったことを物語っています。
 鉄道の開通、ガス灯の整備という横浜にとって重要なインフラ整備がなされてから140年目の節目に、維新の起業家・高島嘉右衛門の事跡を通して、近代都市として形を整えつつあった横浜の姿を再発見していただければ幸いです。

 
 
 
 

高島嘉右衛門
図1 高島嘉右衛門
高島家所蔵・
横浜開港資料館保管


今回の常設展示室コーナー展では、
「維新の起業家・高島嘉右衛門」と題して、
横浜のまちづくりに大きな足跡を残した
高島嘉右衛門を取り上げている。
ここでは、彼が関わった多岐にわたる事業のなかから、
鉄道用地の埋立てとガス事業を中心に、
展示資料のなかからいくつか紹介したい。

 

   請負商としての眼力
 『高島翁言行録』(1908年)をはじめとする伝記が語るところによると、天保3(1832)年生まれの高島嘉右衛門(図1)が、材木商を営んでいた江戸を離れて横浜に活動の舞台を移すのは、開港と同時の安政6(1859)年6月2日(旧暦:以下、明治5年までの年代表記は旧暦に拠っている)のこと。当初は本町4丁目で肥前焼の販売店を開いていたが、やがて金貨密売のかどにより投獄され、慶応元(1865)年まで牢獄生活を強いられる。
高島家に伝わる釜
図2 高島家に伝わる釜
高島家所蔵・
横浜開港資料館保管

 請負商として頭角を現すのは、出獄後、高島嘉右衛門と名前をあらためてからのことである。建設ラッシュにわく開港場横浜は、材木商としての出自をもつ高島にとって、まさにうってつけの現場であった。その出自にまつわるエピソードとしてよく語られるのが、安政2(1855)年に江戸で発生した大地震を予知するきっかけとなった釜の話である。火の気もないのに家の釜がひとりでに鳴りだしたことを家人から聞かされた高島が易を立てたところ、「火」を表わす卦が得られたため、江戸に大火があると予測して事前に材木を買い占めたという。
 このときに鳴ったとされる釜が、現在も高島家には伝えられている(図2)。のちに易聖として名を馳せる高島嘉右衛門の「易」の原点として伝記が伝えるエピソードであるが、ことの真偽はともかくも、こうした眼力をもつ高島だからこそ、鉄道やガス事業といった文明開化のまちづくりに次々と挑んでいったといえる。何の素地もなしに、大土木工事に飛び込んだわけではないのである。

   鉄道開通を支えた埋立事業
 京浜間の鉄道敷設事業は、イギリス人技師モレルの設計・監督のもと、明治3(1870)年に工事がスタートする。神奈川から横浜にかけては、神奈川台を切り崩し、海中に築堤を設けて野毛山下へと向かうルートが設定された。高島嘉右衛門は、この築堤の埋立てを晴天140日以内という厳しい条件で請負い、明治4(1871)年2月に完成させた。埋立地のうち線路用地と道路用地以外は高島の私有地となり、彼の名前を取って「高島町」と名づけられた。
 図3は現在の京急線神奈川駅付近で、切り崩された神奈川台に線路が敷かれている様子が撮影されている。右手の森が本覚寺で、中央に写っている陸橋が東海道を結ぶ青木橋である。青木橋の先には、高島嘉右衛門が埋め立てた弓状の築堤が伸びているのが見える。

工事中の鉄道用地 建設中の横浜停車場
図3 工事中の鉄道用地
『ファー・イースト』1871年10月2日号
横浜開港資料館所蔵

図4 建設中の横浜停車場
『ファー・イースト』1871年10月2日号
横浜開港資料館所蔵

   この築堤の先に初代の横浜停車場が建設されるのであるが、建設がすすむ停車場の構内を捉えたものが、図4である。右奥の2棟並んだ2階建ての建物が、明治4(1871)年9月に完成した木骨石造の駅舎で、かつて高島と組んでイギリス公使館を手がけた建築家ブリジェンスが設計した。新橋駅と同じデザインの双子の駅舎である。この駅舎に隣接して建つのが客車庫で、少し離れた左手にはカマボコ型屋根の機関車庫が見える。その間に組まれている足場は荷物庫の建設用であろう。
 鉄道施設に目を奪われがちだが、この写真で手前に大きく写っている2階建ての洋風建築が、高島嘉右衛門が興した横浜瓦斯(ガス)会社の施設である。写っている建物はお雇い外国人技師の官舎で、写真では見えないが、画面右端の崖下ではガス製造所とガス溜の建設が進んでいたはずである。
 写真が物語るように、この時期、高島嘉右衛門が関わった事業の大規模な建築・土木工事が立て続けに進行していた。

   写されたガス会社
 高島嘉右衛門の立ち上げた横浜瓦斯会社(当初は日本社中と称した)が、ドイツのシュルツェ=ライス商会との競争に打ち勝って、外国人居留地でのガス灯設置の認可を得るのは、明治4(1871)年1月のこと。高島は上海でガス事業の経験をもつフランス人技師プレグランを招いて工場建設とガス管の敷設を進め、明治5(1872)年9月、馬車道から本町通りにかけての日本人市街に最初のガス灯が点灯した。外国人居留地へは、少し遅れて明治7(1874)年に点灯している。

  横浜瓦斯会社全景
図5 横浜瓦斯会社全景 明治7(1874)年頃 当館所蔵

   図5は、明治7(1874)年頃の撮影と思われるパノラマ写真の一部で、稼働を始めたばかりのガス会社の工場が克明に写されている。煉瓦造の煙突をもつ石造建築がガス製造所で、手前の円形構造物がガス溜である。工場の施設の遠方には、高島が埋め立てた鉄道用地が広がっているが、この時点ではまだ建物の姿はない。
 工場でつくられたガスは、地中に敷設されたガス管を通して、市街地に立てられたガス灯へと送られた。なお、このときにグラスゴーから輸入されたガス管の一部が、跡地にあたる市立本町小学校のグランドから出土しており、当館中庭に展示されている。
 図5ではトリミングされて見ることができないが、横浜瓦斯会社の敷地の右となりは、高島が創設した洋学校(通称高島学校)の校地であった。この写真が撮影されたときにはすでに火災で校舎群は失われており、資材が積まれた跡地しか写されていないが、開港場横浜の周縁ともいえる地域に、鉄道の停車場、ガス製造工場、洋学校と、文明開化をになう諸施設が次々と建てられていった状況を示した貴重な写真である。

望欣台の碑
図6 望欣台の碑

 隠棲の地
 伝記によると、明治9(1876)年、高島嘉右衛門は実業界からの引退を決意し、自らが埋め立てた鉄道用地を見下ろす神奈川の高台(現・神奈川区高島台)に山荘を構えて隠棲し、易の研究に打ち込んだとされる。横浜瓦斯会社、高島学校のいずれもが創業後ほどなく経営に行き詰まり、経営を手放した高島にとっては、いったん身を引く機会と判断したのであろう。
 高島台の地からは、入り海を隔てて遠くに横浜停車場、ひいては横浜の市街地を望むことができた。高島は自邸に設けられた広大な庭園を一般にも公開し、この眺望を提供していた。そうすることで、文明開化の都市に抱いた夢を人々と共有したかったのではないか。現在はかつてのような眺望は得られないが、高島邸内に建てられていた望欣台の碑(図6)が高島山公園に移設され、彼の偉業を静かに称えている。

(青木祐介)
 
 
 

「横浜にチンチン電車が走った時代」展より
開業40周年記念 市営地下鉄のあゆみ

   昭和47(1972)年、横浜のまちを走っていた市電が全て姿を消しました。当館では廃止からちょうど40年になるのにあわせて、今年1月から4月まで特別展「横浜にチンチン電車が走った時代」を開催しました。市民の足として親しまれた市電に愛着を持つ方はたいへん多く、開館以来最高の入館者数を記録しました。
 さて、市電が廃止されたその年、代わって市営地下鉄が開業しました。今年は地下鉄開通から40周年となる記念の年でもあります。この頁では、市営地下鉄40年のあゆみをふりかえってみたいと思います。
 横浜で最初に地下鉄の構想が現れるのは昭和24(1949)年のことです。横浜市は戦災からの復興を目指して「横浜市建設計画概要」を作成し、広い市域内を回る環状の高速鉄道の建設を計画しました。そのうち臨海部や都心部の市街地区間が地下鉄とされました。
 しかし、これは具体化せず、本格的な計画がなされるのは昭和40年代に入ってからです。昭和40(1965)年、「横浜の都市づくり」構想(いわゆる六大事業計画)が発表されました。六大事業の一つが高速鉄道、つまり市営地下鉄の建設です。翌年、市電の廃止決定とともに、その建設が決まりました。

『横浜市の高速鉄道計画』(挿図)
  図1 『横浜市の高速鉄道計画』(挿図)
昭和46(1971)年 榎本敏雄氏寄贈・当館所蔵
市営地下鉄の当初の路線計画図。1号線から4号線までの四路線として計画されていた。


   横浜は埋立地からなる軟弱地盤のため、地下鉄の建設は多大な困難をともないましたが、昭和47(1972)年、横浜に最初の地下鉄が開通しました。東京、大阪、名古屋、札幌に次ぎ、日本の都市で五番目の地下鉄です。その区間は上大岡―伊勢佐木長者町の5.3qで、上を走る鎌倉街道(県道21号)の渋滞が著しく、最も早期の開通を必要とする区間でした。ただし、ビジネス街の関内地区まではつながっておらず、伊勢佐木長者町駅から神奈川県庁まで無料の連絡バスが運転されました。

 
「横浜市営地下鉄開通記念乗車券」 「地下鉄開通記念」(メダル)
図2 「横浜市営地下鉄開通記念乗車券」
昭和47(1972)年 榎本敏雄氏寄贈・当館所蔵

図3 「地下鉄開通記念」
(メダル)

昭和47(1972)年
根津協氏寄贈・当館所蔵

市営地下鉄開通当時の列車ダイヤ
図4 市営地下鉄開通当時の列車ダイヤ
昭和47(1972)年 花房幸秀氏寄贈・当館所蔵


   その後、地下鉄の建設工事は急ピッチで続けられ、昭和51(1976)年、伊勢佐木長者町から関内、桜木町を経て横浜駅までと、上大岡から上永谷までが開通。初めて国鉄(現・JR)との乗り換えが可能になりました。そして、昭和60年代に北は新横浜まで、西は戸塚までの延伸が完成します。

 
「横浜市営地下鉄開通・横浜〜上永谷」(ポスター)
図5
「横浜市営地下鉄開通・横浜〜上永谷」(ポスター)

昭和51(1976)年 榎本敏雄氏寄贈・当館所蔵


「横浜スタジアムオープン記念」(乗車券)
図6
「横浜スタジアムオープン記念」
(乗車券)

昭和53(1978)年
ノ沼午郎氏寄贈・当館所蔵
横浜大洋ホエールズの本拠地となり、球場への足として地下鉄が活躍することになった。

「横浜市営地下鉄・新横浜〜舞岡間開通記念」(乗車券)
図7
「横浜市営地下鉄・新横浜〜舞岡間開通記念」
(乗車券)

昭和60(1985)年 ノ沼午郎氏寄贈・当館所蔵

「戸塚にタッチ。(地下鉄・戸塚〜舞岡間開通記念高速鉄道優待乗車券)」(磁気カード)
図8
「戸塚にタッチ。
(地下鉄・戸塚〜舞岡間
開通記念高速鉄道優待乗車券)」(磁気カード)

昭和62(1987)年
横浜市交通局寄贈・当館所蔵
当時、人気のあったアニメのキャラクターが用いられている。

   横浜市営地下鉄は平成以降も着実に延伸を続けました。平成5(1993)年、新横浜から港北ニュータウンを抜けてあざみ野まで開通。東京急行電鉄との調整に時間を要しましたが、あざみ野で東急田園都市線と接続することになりました。そして平成11(1999)年、戸塚から藤沢市に入り小田急江ノ島線の湘南台まで開通し、現在「ブルーライン」と呼ばれる40.4qの路線が全通しました(正式な路線名称は湘南台―関内が1号線、関内―あざみ野が3号線)。
 一方、横浜市内を環状に走る高速鉄道は、終戦直後の「横浜市建設計画概要」に含まれていましたが、市営地下鉄が計画された段階では、4号線(鶴見―元石川)の一部が残るだけとなりました。しかし、昭和60(1985)年の運輸政策審議会の答申には、「新設もしくは検討すべき路線」として、横浜(地下鉄)4号線(日吉―高田町―港北ニュータウン―横浜線方面)と横浜環状線(根岸―上大岡―東戸塚―鶴ヶ峰)が登場します。そして、これは平成12(2000)年の同答申で「横浜環状鉄道」(元町―根岸―上大岡―東戸塚―二俣川―中山―日吉―鶴見)となり、このうち中山―日吉間13.0qが平成20(2008)年、市営地下鉄「グリーンライン」(4号線)として開通しました。
 「グリーンライン」の軌間は標準軌(1435o)、車両は鉄輪式リニアモーターカーです。「ブルーライン」に続く横浜で二本目の地下鉄の路線系統ですが、他都市の地下鉄が中心市街地を網目状にカバーする路線網を形成しているのに対し、「グリーンライン」は横浜の都心部を全く走らず、完全な郊外鉄道です。これは市域全体の面積に比して、中心市街地(歴史的核となる部分)の面積が小さいという横浜市の特質をよく表しています。
 今後、ブルーラインはあざみ野から新百合ヶ丘への延伸が、グリーンラインは横浜環状鉄道としての完成が計画されています。

(岡田 直)
 
 
 

昭和はじめのハマの女学校
― 受験と学生生活 ―

   当館はこのほど、昭和戦前期(12年(1937)〜17年)にフェリス和英女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に在学していた女学生が旧蔵していた資料全44点を入手した。このなかには戦前期の女学校の受験や学園生活をしのばせる資料(試験問題・作文・アルバムなど)が含まれなかなか興味深い資料群であるため、ここでその一部を紹介したい。

   高等女学校の受験
 この資料の持ち主だった女学生は戦前期に横浜市保土ヶ谷区に住んでいたKさん。彼女は尋常高等小学校(6年制の尋常小学校に続く2年制の小学校)の卒業(昭和12年3月)をひかえ、高等女学校への進学を希望していた。高等小学校卒業後の女子の進路としては、女子師範学校(教員養成)、実業学校(職業・技術教育)などがあったが、高等女学校は女子に対する一般教育を目的としていた教育機関である。明治38年(1905)の高等女学校への進学率は5%未満だったが、大正14年(1925)には15%、昭和15年には20%近くまで上昇、大正から昭和初期にかけて急速に学生数を伸ばしていた。

  共立女学校の「入学志願者心得」
資料1 共立女学校の「入学志願者心得」


   Kさんは昭和11年の秋ごろから、フェリスのほか共立女学校、捜真女学校、横浜市立高等女学校など横浜の女学校の学校案内を取り寄せて受験先の検討をおこなっていた(資料1、共立女学校の「入学志願者心得」)。さらに、受験が間近にせまった2 月には「模擬試験」も受けたようだ。資料2 は東京・神田の初等教育会なる団体が実施していた模試のちらしである。模試の日程は入試本番の約1ヶ月前の2月14日で、会場は桜木町駅近くの朝日新聞社内にあった朝日講堂であった。ちらしには「神奈川県中等学校入学試験新方針による模擬試験」とあり、入試の「新方針」に対応していることをアピールしている。昭和はじめにはすでに「お受験」が盛んだったのである。

  初等教育会の「模擬試験」ちらし
資料2 初等教育会の「模擬試験」ちらし


   受験勉強の甲斐あってかKさんは無事フェリスに合格。3月22日付けで合格通知を受けとり、入学金2円(現在の価値で約4000円)を納めて昭和12年4月から山手で学園生活を開始した。

   ピアノのレッスン
 Kさんが残した在学中の資料のなかには、授業の課題として提出した作文も含まれており、その内容から戦前期の女学生の日常生活を垣間見ることができる。資料3は「ピアノのレッスン」と題された400字詰め原稿用紙2枚半の作文で、Kさんが3年生のときに提出したものだ。

  「ピアノのレッスン」と題された作文
資料3 「ピアノのレッスン」と題された作文


  火曜日の放課後、お道具もかたずけないでピアノのレツスンにかけつける私だ。今日も又、大急ぎでお部屋の前に来てこつこつとノツクしながら中をのぞくと、ミス・スエットナムが目で「お入りなさい」をしていらつしやるのでそつと中に入つた。中では未だ四年のMさんとHさんがドエットをしていらつしやる。(中略)ひき終ると先生は、英語で色々な事をおつしやってからMさんに、「この曲は好きですか」とお聞きになる。


フェリス和英女学校卒業時の集合写真
資料4 フェリス和英女学校
卒業時の集合写真
 この作文の記述から、Kさんは放課後外国人女性からピアノのレッスンを英語でうけていたことがわかる。戦前期、授業以外に「稽古事」をしていた女学生は7割近くいたといい、その代表的なものは、茶道、華道、ピアノだった。とくにピアノはモダンで西洋化された新中間層の家庭の象徴として人気が高かったようだ。ピアノのレッスンは女学校によっては「課外授業」としてカリキュラムに含まれていた。たとえば、Kさんの旧蔵資料のなかの「捜真女学校学則」には「規定以外ノ時間ニ於テ特ニ音楽又ハタイプライターノ教授ヲ望ム者ハ左ノ授業料ヲ納ムベシ」として「一、ピアノ授業料 一週一回 毎月金 四円 ピアノ使用料 毎月 金 二円」との規定がみられる。Kさんの父は現役の陸軍少佐なのだが、娘は「モダン」なライフスタイルに憧れるところがあったのかもしれない。
 いずれにせよ、本資料群は昭和はじめの受験や学生生活の具体的な様相が判明する資料群として貴重なものと言える。この一部については、2013年1月29日より当館のコーナー展にて公開する予定である。


   参考文献
稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書、2007年

 
 
 
[寄贈資料の紹介]
平成24年1月以降に新しく寄贈していただいた資料です。(敬称略)
  寄贈資料名 点数 寄贈者
 逓信共済組員証 1 鶴見すみ子
 横浜中央電話局職員証 1
 開業時の市営地下鉄ダイヤ 2 花房 幸秀
 東京オリンピック、みなと祭りの横浜市電
 記念乗車券(昭和39、40年)
2 小川 隆
 横浜市電写真ネガフィルム(昭和45、46年) 59 福住 賢次
 『ちんちん電車』横浜市交通局(昭和47年) 1 吉田 順子
 横浜市電回数券残片(昭和18年頃) 6 植木 孝子
 横浜市電・市バスおよび他都市の市電等の切符
(一括、昭和戦前期)
3 芳賀 洋子
 横浜市電切符各種(一括、昭和戦前期) 29 佐藤 辰也
10  横浜関係絵葉書等(一括、昭和戦前期) 12


 
編集後記
 当館は来年の3月に開館より10周年を迎えます。それにあわせて本誌もデザインをリニューアルいたします。どうぞご期待ください。