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第15号 2011年1月
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ごあいさつ 2008年10月、伊勢佐木町の横浜松坂屋が惜しまれながら閉店しました。昭和戦前期の横浜を代表する百貨店建築として、歴史的建造物にも認定されていた横浜松坂屋(旧野澤屋)ですが、アール・デコとして知られる、幾何学模様の装飾に包まれたその建築スタイルは、1920〜30年代にかけて、世界中の都市に広がったものでした。 横浜では、ちょうど関東大震災からの復興を遂げつつあった昭和はじめの頃から、こうしたアール・デコ建築が都市を飾り始めます。その背景にあったのは、「モダニズム」と呼ばれる新たな生活・文化の潮流でした。ファッション・音楽・映画・乗り物など、都市はモダンな文化の発信地となり、人々は百貨店・映画館・カフェー・ホテルなどの商業・娯楽施設に集い、都市の賑わいを生み出しました。 特別展「モダン横濱案内」では、モダンと呼ばれたかつてのハマの街に、皆さまをご案内します。当時の人々が感じていたモダンなくらし・文化とは何だったのか。ハマの街をぶらりと歩くように、モダン都市の雰囲気を感じてください。 また【横浜の都市文化を探る】という統一テーマでの関連展示として、横浜開港資料館では企画展「ときめきのイセザキ」を、横浜市史資料室では展示会「戦後横浜の復興を支えた文化人たち」を開催中です(いずれも1月30日まで)。どうぞあわせてご観覧ください。 |
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関東大震災からの復興が急ピッチに進んでいた昭和はじめの横浜。 街には鉄筋コンクリート造りの建物が立ち並び 近代的な都市風景が姿を現しはじめていました。 ほぼ同時期に「モダン」と言われる新しい文化と 生活スタイルが都市部を中心に世界的に広まりつつありましたが、 それは横浜の街にも入り込んでいました。 今回の特別展「モダン横濱案内」は、 昭和初期の横浜の商業・娯楽施設を中心に、 横浜の街のモダンな様相とそこに集う人々の姿を点描しています。 本稿では特別展で紹介しているトピックと資料を数点取り上げて、 横浜のモダニズムに見られるいくつかの側面について 考えてみたいと思います。 |
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デパートのダイレクト・メール 震災後のモダン都市を象徴する施設は、伝統的な呉服店から近代的な設備・方式に衣替えをしたデパートでした。横浜では伊勢佐木町の野沢屋、吉田橋際の松屋がデパート界の「両雄」と評されます。今回の展示では、本誌前号で紹介した小説家・久米正雄が旧蔵していた資料(今回の展示が初公開となります)から、この二つのデパートが顧客(久米)に送ったダイレクト・メール類も出展しています。 |
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![]() 2 横浜松屋が発行した七五三関連の商品のちらし 1930年代 当館蔵(久米正雄関係資料) |
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なかでも注目したい資料がこの「七五三お祝ひ支度品陳列」(横浜松屋発行)です。七五三の晴れ着というと現在ではむしろ和装が中心ですが、この広告ちらしを見ると、母親と右端の女の子は伝統的な和服を着ているものの、母親の両側の子どもは洋服を着ているのが見てとれます。また、ちらし左側の七五三関連の商品リストを見るとおよそ半分が洋装品で占められています。デパートは七五三という伝統的な季節行事において、和服だけではなく洋服も紹介し、子どもから洋服の普及をねらっていました。この七五三の広告ちらしは、伝統的な生活文化にさえ入り込もうとしていたモダニズムの姿をはからずも象徴的に描き出しているのです。 |
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ダンスホール モダン都市の夜の晴れ舞台はダンスホールでした。昭和初期のダンスホールは女性ダンサーを雇い、ホールを訪れた客はダンス・チケットを購入し好みのダンサーを指名して一緒に踊るという、アメリカに由来するシステムを採っていました。 |
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![]() 3 太平洋ダンスホールの仮装舞踏会 昭和10年 中村恵子氏蔵 |
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展示では、横浜のダンスホールの内部を写した写真も何点か出展していますが、そのうちのひとつがこの太平洋ダンスホール(山下町)でおこなわれた仮装舞踏会の際の記念写真です。並んでいる人物の後段中央から右にかけてアメリカの水兵らしき外国人の姿が写っていますが、このホールは港に近いため外国人客が多く「異国のホールにでも居る様なエキゾチツクな匂ひ」が感じられたと当時の雑誌で評されています。 いっぽう壁上部と天井が接するあたりに、ホール全体の雰囲気とは不似合いな江戸時代の浮世絵のような絵画が飾られているのが確認できます。横浜のダンスホールは日本人にとって「西洋」というエキゾチシズムを味わうことのできる場でしたが、外国人に向けては「日本」というエキゾチシズムを感じさせる必要があったのではないかと思われます。このダンスホール場内の写真は昭和初期のモダニズムの一断片を写し取ったものですが、日本人と欧米人それぞれにとっての「エキゾチツクな匂ひ」が画面に写し込まれているという点、モダン都市横浜の個性を考えるうえでひとつの手がかりとなります。 |
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横浜の女性 昭和初期のモダンな風俗のうちもっとも一般に知られているのは「モダン・ガール」(モガ)の存在、あるいは女性の洋装化でしょうか。横浜の女性については、「あまりに美しすぎる外国の婦人たちに接しすぎるため思ひ切つた粧ひをするのに憶病になるといふ」「(横浜のダンサーは)国際港らしくフランク」といった評を昭和初期の雑誌にみることができますが、いずれも横浜の国際港という性格と絡めてその個性が考えられている点は興味深く感じられます。 |
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![]() 4 山田喜作画「真夏の港」 昭和7年 島根県立石見美術館蔵 |
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これらの雑誌の言説と関連して注目したい絵画が山田喜作画「真夏の港」です(本作品の背景は横浜とされています)。ここで画家は前景の女性や小道具に昭和初期のモダンな要素を描き入れていますが、その遠景に異国情緒あふれる港町風景(震災以前の街並のイメージの断片を組み合せたように見えます)を配しています。昭和初期のモダンな女性像の背景を描くにあたって、画家は横浜の国際港(エキゾチシズム)という個性を援用したかったのではないでしょうか。けれども、現実の昭和初期の街並ではなく、震災以前のエキゾチシズムがより濃く漂う街並の方が主題を強めると判断して、同じ時期には存在しなかった近景と遠景を画面上で融合させたように見えます。この絵画はモダニズムと、モダニズム以前の横浜のエキゾチシズムを弁別するうえで示唆をあたえてくれます。 横浜はモダニズムが入り込む以前よりエキゾチシズムを個性とする街でした。それとともに市民の多くは伝統的な生活を続けていました。従来のエキゾチシズムや伝統的な生活が昭和初期のモダニズムの流入によって、どのように変容したのか、あるいは融合したのか。現在の都市横浜の個性の成り立ちを考えるうえで今後検討していきたい課題です。 *引用した史料と参照した研究文献については紙幅の関係から省略しましたが、ご興味のある方は特別展関連刊行物『モダン横濱案内』をご参照ください。 |
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模倣ジェラール瓦のつくり手たち |
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先の展覧会「西洋館とフランス瓦」(2010年1月23日〜5月9日)では、横浜生まれのフランス瓦として知られるジェラール瓦を取り上げ、製造者ジェラールが山手に構えていた瓦工場の近代的な製造システムや、発掘調査で新たに判明したジェラール製の土管などを紹介した。 なかでも来館者の関心が多く寄せられた展示資料は、日本人職人がジェラール瓦を真似てつくった「模倣ジェラール瓦」であった。本物と並べてじっくり見比べると、たしかに違いはわかるものの、屋根に葺かれているだけではほとんど区別がつかない。本家のジェラール瓦以上に発見例が少ない模倣ジェラール瓦であるが、近年、少しずつ新しい資料が発見されている。 |
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博覧会に出品された模倣瓦 フランス人実業家ジェラールが山手の工場で瓦製造を始めたのは、瓦に刻まれた刻印から1873(明治6)年と考えられるが、1877(明治10)年には、早くも日本人職人がつくったフランス瓦が、東京上野で開催された第1回内国勧業博覧会に出品されている。 |
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表1 第1回内国勧業博覧会に出品された洋瓦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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*坂上克弘・青木祐介「模倣ジェラール瓦の木製押型」『横浜都市発展記念館紀要』第5 号より |
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博覧会の記録によると、出品者は表1のとおり。「仏瓦」「仏国形屋瓦」という表現から、出品された瓦はフランス瓦と考えられるが、当時日本でフランス瓦を製造していたのは、横浜のジェラール工場以外にはなかったのであるから、これらがジェラール瓦の模倣であることは間違いないであろう。出品者のほとんどが、東京の本所・深川といった江戸時代から瓦職人が多く住んでいた地域の者であるが、陶磁器製造の本場である愛知の瀬戸からも出品されていることに驚かされる。 このとき出品されたフランス瓦の詳細は、写真も現物も確認されていないため不明であるが、これらの出品者との関係が推測される模倣ジェラール瓦の存在は、以前から知られていた。 |
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刻印された職人の証 ジェラール瓦の裏面に製造者ジェラールの名前が刻まれているように、模倣ジェラール瓦のなかにも、裏面に日本人職人の名前が刻まれたものがある。 たとえば横浜市指定文化財である旧柳下家住宅(磯子区下町、図1)に葺かれていた模倣ジェラール瓦には「赤穂製」の刻印をもつものがあり、前述の博覧会記録に登場する本所菊川町の「赤穂太五郎」との関係が推測されている(岡本東三「開港横浜で生まれた仏蘭西瓦」『横浜市歴史博物館紀要』6号)。 また展覧会「西洋館とフランス瓦」では、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻が所蔵する三種類の模倣ジェラール瓦を初めて公開したが、そのいずれにも職人の名前が刻まれている。 ひとつ目の刻印は「植松直正製」(図2、3)。これは博覧会出品者のうち、浅草の植松金蔵とのつながりを想像させる。これと同じ刻印をもつ模倣ジェラール瓦が、学習院大学史料館にも保管されており、いずれも1877(明治10)年に東京虎ノ門に建てられた工部大学校講堂の屋根に葺かれていたと考えられる。 ふたつ目の刻印は「鈴木十兵衛製造」(図4)。こちらは現時点で出品者に直接つながる情報は得られていない。 そして最後の刻印は「GohonmatsouTamoura Seioe」(図5)。アルファベットで刻まれた唯一のものである。最初の二語は「ゴホンマツ タムラ」と読むのであろう。「ウ」の発音をフランス語のように「ou」と表記している点が注目される。最後の「Seioe」は「セイ」=製と読ませるのであろうか。 |
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「五本松田村」とは 最後の「Gohonmatsou Tamoura」の刻印については、田村という名前から、先の博覧会出品者の「田村三五郎」との関係が想像されるが、その推測をさらに確かなものにしてくれるのが、田村の前に付けられた「Gohonmatsou」の語である。 「Gohonmatsou」=五本松と考えてみると、江戸時代後期の名所案内『江戸名所図会』や安藤広重の『名所江戸百景』などに描かれた江戸の名所のひとつ、小名木川沿いの五本松の存在にいきあたる(図6)。かつては五本あったと伝えられる松の大木で、1907(明治40)年に枯死したのち、09(同42)年に切り倒されたという(江東区教育委員会『江東区の文化財 史跡』)。 五本松があった場所は、現在の地名でいえば東京都江東区猿江2丁目にあたり、明治時代の町名は深川猿江町であった。1909(明治42)年発行の『新撰東京名所図会 深川区之部三』には、当時の深川猿江町が「小名木川通り五本松」と称されていたことが記されている。 博覧会にフランス瓦を出品した田村三五郎の住所が「深川猿江町」であったことを考えれば、この「Gohonmatsou Tamoura」製の模倣ジェラール瓦は、五本松すなわち深川猿江町の田村三五郎の手になる可能性が高いのではないか。もちろん同じ名字の同業者(たとえば血縁者)が同じ町にいなかったとは限らないが、この模倣瓦は、「植松直正製」の刻印をもつ瓦とともに、博覧会に出品されたフランス瓦を類推する重要な資料として位置づけられるであろう。 なお、五本松に関する参考資料については、東京都江東区文化観光課文化財係の野本賢二氏からご教示いただいたものである。野本氏からは展覧会の会期中に、江東区でも1996(平成8)年に遺構確認調査がおこなわれた亀戸の浅間神社境内で、模倣ジェラール瓦とみられる破片が出土していることを教えていただいた。遺物はわずかな破片ではあったが、既報の模倣ジェラール瓦とは細部に違いがみられ、新型の発見を予感させるものであった。貴重な情報をくださった野本氏に感謝したい。 模倣ジェラール瓦の存在は、伝統的な瓦製造の現場にジェラール瓦が与えた影響を考えるうえで、今後、ますます重要になってくるであろう。これからの発見は、ここ横浜よりも、近世以降の発掘調査を実施している東京で増えてくるのではないだろうか。 |
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(青木祐介) |
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[寄贈資料の紹介] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平成22年6月以降に新しく寄贈していただいた資料です。(敬称略) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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編集後記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明けましておめでとうございます。今号では、開催期間が残りわずかとなりました特別展「モダン横濱案内」に関連する特集を4ページで組みました。この時代を実際に体験された方の回想は、非常に興味深いものがあります。都市に住む現代人のライフスタイルの原型ができあがった時代と言えましょう。まだ特別展をご覧になっていないみなさま、どうぞお急ぎください。(岡田) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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