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【博覧会ポスター展】 ―懸賞募集した 明年博覽会ポスター陳列―
7月16日
さきに募集した明年の横浜博覧会のポスター展覧会は十二日から十七日迄伊勢佐木町「寿百貨店」で開いた。向つて右から二枚目の船のフアーナーとタウンの交叉せる雄大な未来派的構図が一等に入賞したものである。作者は大阪市柳能登二氏。
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【齋藤駐米大使帰る】 ―日米の感情は好転せりと喜ぶ―
7月17日
駐米大使齋藤博氏は十七日午後零時四十分夫人、令嬢同伴し秩父丸で横浜港へ帰来した。明年の軍縮会議を前にして来る可き非常時を控へ、政府と具体的の打合せの為めの帰朝でパーラーで愛想よく故国安著第一声として語る。―ホノルヽて岡田内閣の出来たのを知つた。多数の外人の質問に答へて新内閣は決して外交方針を変へないと語つた。日米関係は好転しつゝある今目(ママ)程日本研究の盛んな事はない。随つて日本語の研究も相当盛んである云々―
《解説》 斎藤博は悪化の一途をたどっていた日米関係の改善につとめたが、昭和14年(1939)ワシントンで客死する。
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【「白鳥」パブロバは舞ふ!】 ―社会事業後援の舞踊会―
7月19日
児童愛護会主催の欠食児童救済基金募集のアンナ・パブロワ嬢舞踊公演は十九日夜七時より音楽堂に開催されたが、之は一九一七年ロシア革命の勃発に際し赤色テロの魔手を避けてパブロワ一家が各国を流浪して日本を訪れるや、仁と義の温き国民性に抱かれたのに感激し遂に日本を永住の地と定めたが、先般特に許されて帰化したので今後日本人として大いに社会事業に貢献して芸術報国の至誠を完ふせんとする女史の心情の発露であつて各方面から感謝されてゐる。 (写真はパブロバの舞踊東京祭)
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【海を征服する小国民に健康美は輝く】
7月20日
「海国日本」の陣後を引受けるわれ等の第二世逵、お待ち兼ねの夏が来たのに相憎の梅雨空で毎日天を仰いで小型な慨嘆を洩してゐたが、やつと晴れ上つたきのふけふ、大挙して海へ海へと押かけて市内の各児童海水浴は満員の盛況である。 (写真は間門臨海小学校生徒)
《解説》 大正元年(1912)以降、横浜貿易新報社など新聞社が横浜市各所に海水浴場を開き、同8年には横浜市が本牧に市営海水浴場を設置、海水浴は市民に親しまれるレジャーとなっていった。
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【思はぬ避暑に米国娘の大はしやぎ】
―浴衣の裾をチラチラとさせ乍ら
舶来の浮世絵―
7月21日
廿日天然痘発生して長浜検疫所沖合に回航されたゼネラル・リー号(四七三二噸)の船客並に船員百三十名は、白衣の検疫官に引連れられて検疫所と云ふ物々しいおつかないところと思つてビクビクと来て見たら、これは又緑の山々に囲まれた白砂の浜辺からは東京湾内を一望に納めると云ふ湘南唯一の絶景に目をみはり、殊に衣類所持品等身に付けた一糸までも消毒して貰ふので先ず『バス』に入りスツカリ温泉気分を味はつてからお揃ひの『キモノ』と帯を渡されて大喜びのヤンキー・ガール。跣足で芝生の上を飛廻つたり小山に登つたり浜辺に出たり時ならぬ彼女等の矯声に消毒の臭ひも吹飛ばされて失つた。 (写真は浴衣姿の米人達)
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【沈黙の英雄『平戸上等兵』を送る】
―けふ盛大な区民葬―
7月23日
去る六月九日北満松乙洞附近で討匪中奮戦の結果名誉の戦死を遂げた中区別所町(農業)熊吉氏三男平戸春吉君の英霊は二十日早朝横浜へ永遠の凱旋をしたが、廿三日午後二時より大岡小学校に於て在ク軍人・青年団 ・女子青年会学生等数千名参列して祭し(ママ)料伝達式並に「区民葬」を挙行、知事・市長・四十九連隊長等の弔辞あつたが此の悲しき盛儀には遺族を始め参列の人々の涙を新にしたが、北満に於ける平戸氏の勇敢なる行動は永久に残れる中区民を始め横浜市民の誇りである。 (写真は葬祭場)
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【若きマドロスの憧れ『港のニツポン娘』】 ―国際都市ヨコハマに感傷の夢多し―
7月25日
港から港へのヂプシー船乗り稼業、キヤプテンからコロツバスに至るまでミンナ各地の夢は多い。船が東洋に向つて錨を上げれば彼れらマドロス閣下の浪間の夢はマゲとキモノの『ニツポン娘』の上に行く。温順と情熱とそしてソノ、淑やかな感触に、世界を廻ぐる旅人の日本に宿る一夜こそ淡き感傷の想出であり、港々に女あれど彼等の憧れは『港のニツポン娘』!
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【制服の統計員】
―商工生県庁で実習―
7月26日
県立商工実習学校の上級生十五名が統計事務実習の為め廿五日から県庁議員控室に陣取り、県統計調査課関屋統計主事以下お役人の指揮を受け乍ら、海汐の満干で子供が生れたり人が死んだりするといふ時間と人間の死亡・出生率の関係とい(ママ)風変りな調査を行つてゐる。 (写真は県庁にて)
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【光なき世界の二女性
三年の蛍雪成り輝やいて帰朝】
7月27日
横浜訓盲院から米国マセセツ(ママ)州ワタータウン市のバーキンス盲学校に留学中であつた盲女性猿田惠子・武井稲子さんの二人は滞米三ケ年の勉学の傍、米国各地の盲唖教育並に社会施設の状況を視察し、又セントルスイス(ママ)に開かれた全米盲教育者会議に出席したり、各種の教育資料を得て廿七日早朝プレシデント・フーバー号で帰朝したが、盲学校のキヤムプ実習に於ける採取植物を手触りで種別したのには教師を始め全校生を驚嘆させたさうである。 (写真は右猿田、左武井の両嬢)
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【五区役所の野球リーグ戦始まる】 ―高工球場で盛大な入場式―
7月27日
横浜市五区役所野球連盟主催第四回リーグ戦は廿七日午後二時より高工グランドに於て挙行。市長代理村山助役以下各区の顔も見ゑ、但丸理事長の挨拶に次いで昨年の勝者神奈川区役所チームより市長杯・区長旗の返還の後、田邉徳五郎氏寄贈の市会議長旗の披露の後、村山助役始球で磯子対保土ヶ谷の第一回戦は開かれた。 (写真は入場式)
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【水上オール・カナガワに大会新記録続出】
―コンデイシヨンに恵まれた
日本水上横浜予選―
7月23日
日本選手権水上競技大会第二回神奈川予選は廿八日午前十時より元町の横浜プールで挙行、水温廿三度気温廿六度の絶好のコンデイシヨンと久し振りの天候に恵まれて七種目の大会新記録を得たが、前年よりも棄権多く意外であつた。 (写真は昨年の西田を破つて千五百米自由型に大会新記録を出して上郎氏の優勝牌を獲得した(日大)桑野正実君)
《解説》 7月23日は28日の誤りかと思われる。
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【復興博に県下特産品を紹介】 ―県下商工業者代表の第一回打合会―
7月28日
復興博を機会に県下の特産品を宣伝紹介の為、廿八日古川内務部長は県下の産業組合を始め公私団体会社工場代表を記念会館に招いて、横浜市大岡助役加藤木勧業課長・岡田博覧会理事等より復興博に就いて詳細説明の上出品方を勧説した結果、一同各種の打合せをしたが今後研究の上神奈川館の特設を見ることゝなつた。 (写真は会場古川内務部長の挨拶)
《解説》 翌昭和10年(1935)3月から催行された復興記念横浜大博覧会に出展した「神奈川館」では、婦人の服飾品、輸出工芸品など神奈川県の特産品が実際に陳列された。
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【久し振りで夏はかへつて来ました】 ―各地の海水浴は蘇生のおもひ―
7月29日
珍しの「ニツポン晴れ」に青空を憧れて居た人々の避暑人気は爆発し海へ海へと押出したが、此の天気も北方に発生した高気圧が勢力を増してくれば再び梅雨模樣となるそうであるが何にしろ今年の天気は変つてゐるらしい。 (写真は今年始めての暑さ(三十四度三分)に逗子海岸の賑ひ)
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【楽しい夏の一頁】
―待ち焦れた青空の復活に海は朗か―
7月29日
ビーチ・パラソル担いで光頭に立つお父サンの足取りも軽ければ従ふ一党の面々母サマ・オ兄サン・オ姉チヤマ・あとからチヨコチヨコ随いて行く坊やの口笛まで朗らかである…ではこのお天気を記念に一枚。モデルはチビ君、カメラ・マンは人魚? 『坊ヤ.動いちや駄目よ!』『オネエチヤン、ウマクトツテネ』で小イチヤイ彼氏は気取るです。「パチリ」とエチオピアの王子の如き坊やは難なくカメラに収まる― (写真は葉山にて横須賀鎮守府検閲済)
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【水の豪華版! コンビネーシヨン・ダイビング】
―オール・メンバーで
「音楽と飛込の夕」の練習―
7月30日
神奈川乳児保護会主催の「音楽と飛込の夕」は八月一日夜元町プールで行はれるが、出場のY.D.Cのメンバーが卅日午前練習を行つたが、当日のプログラムはウオーター・ポロ水辺音楽(フイロビンアンサンブル)ダイビング(個人・女子・混合)等の外レコード演奏等あり、夏の夜に適はしい納涼プログラムである。 (写真は当日の呼物混合飛込の練習)
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【騒音防止で電気ホーンはお払ひ箱】 ―防空聴音機の邪魔か―
7月31日
八月一日から県下一斉に実施される「騒音防止」で御法度になつた自動車の電気ホーン並にクラクシヨンホーンは、卅一日中に箱根バスを除いて全部取はづすことになつたが、早くも之を地方に売付けやうと抜目のないブローカー連か(ママ)市電の不用品買占めに盛んに暗躍してゐるが、市電バスでは成行を見る為め一年間位其侭保存して置くそうである。 (写真は市電浅間町車庫にて)
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