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【ハロー.ヨコハマ】
―米・伊艦隊仲よく入港―
4月16日

憧れの『サクラの日本』へと航行を急いで居た米国アジヤ艦隊第五駆逐隊の母艦ブラツク.フオーク号(八.〇〇〇噸)以下十一隻及び伊太利東洋艦隊巡洋艦クワルト号(二.九〇三噸)は春雨煙る中をきのふヨコハマに入港。米艦隊は内貿桟橋、伊艦は二番ブイに繋留されたが、岸壁は久し振りの三千のメリケン.セーラーに桃色の歓迎で大変な賑ひであつた。
 (写真は米国駆逐艦) 
【米・伊両艦長の県市訪問】
―横浜滞在は米艦二十五日伊艦廿九日まで―
4月16日

十六日午后三時半米国ブラツク・フオーク号艦長A.W.ウオルソン大佐は入港と同時に横山知事.大西市長.金子税関長を訪問。一方イタリーのクワルト号艦長ブルノー・ブリヴオネシ大佐も幕僚を従へて上陸、直ちに知事.市長.税関長を訪問、来訪の挨拶を述べた。
 (写真は大西市長とブルノー大佐の握手)
【婦人の新職業】
―モダン代書― 
4月17日

横浜婦人タイピスト協会は今回印書部(タイピスト代書)を設けて一般文書の清書を引受けることになつたが、各会社.組合団体等の申込が多数あり有望なので同会では市役所及び神奈川区役所前に出張所を設けるべく準備中で。これは先般開始した派出タイピストと共にこのモダン代書は婦人新職業として彼女等の一生面が開拓せられるであろう。(写真はモダン代書振り) 

《解説》 大正末期から女性の社会進出が進み、「職業婦人」が増加した。奥にはタイプライターも見えるが、タイピストは職業婦人の代表的な職業であった。
【開拓者達の鹿島だち】
―南米アマゾン指して雄々しくも―
4月18日

日本高等拓殖学校本年度卒業生八十五名の第四陣は、若き新妻卅二名と共に十八日午前十時横浜港出帆の「ぶえのすあいれす丸」でブラジル国の真地に大和民族の新天地を拓しパイロツトとして鹿島立ちをした。希望に燃ゆる若者達の中には二条豊基男爵が梅子夫人を同伴して移住せんとする雄々しき姿も見られ、知事代理.大久保学務部長等を初めとして岸壁は見送人に埋められ、五色のテープ條々たる中に憧れの新天地に向つて出発した。

《解説》 『東京朝日新聞神奈川附録』(4月19日付)では「かつては歓迎されたブラジルにおいてさへ排日移民法案が提出されてゐる」と報じている。昭和14年(1939)にはブラジルの日本人入植者は20万人を超えたが、このような移民の背景には長引く農村の不況の影響もあった。なお、「梅子夫人」は「桜子夫人」の誤り(ご子孫の方より情報提供いただきました)。
【横浜女青の第一回総会】
―非常時日本を背負
      若き女性の意気を見よ― 
4月21日

横浜女子青年連合会は廿一日午後一時から横浜開港記念会館で第一回総会を開催したが、階上階下のホールもこの若き女性で身動きもならぬ盛況で式後余興の児童舞踊に興じつゝ解散した。
(写真は会長の大西市長夫人が会旨を奉読するところ)

《解説》 女子青年団はおおよそ義務教育終了時より25歳までの未婚女性を対象として組織される。昭和元年(1926)頃から設立が奨励されるようになった。
【世界的天才舞踏家来朝】
4月22日

廿一日早朝横浜港入港の太平洋汽船.エム.プレスカナダ号で米国の生んだ世界的天才舞姫ルース.ベーヂ嬢と独逸の名舞踊家ハロルド.クロイツベルグ氏が同伴のピアニスト.フレデリツク.ウイルチンス氏と共に来朝した。ク氏は有名の演出家ラインハルト氏が世界的最大の舞踊家と折紙を付けた人で両氏共廿七日から東劇で出演し後約一ケ月滞在し上海に向ひク氏は欧州にベ嬢は米国に帰る事になつて居る。
 (写真は両氏の舞踊と其のサイン)

《解説》 ハロルド・クロイツベルグはドイツ表現主義の舞踏家。捜真女学校教師だった舞踏家大野一雄も、この来日時にクロイツベルグの公演を見ている。
【日本のハリウツドの地鎮祭】
―世界的映画都市建設の第一歩へ―
4月22日

映画の王国松竹キネマの大船スタヂオ地鎮祭は廿二日午前十一時鶴ヶ岡八幡宮齊主の下に白井.大谷正福(ママ)社長.丁満州国公使.神奈川県知事(代理)田中代議士.其他地元平井大船町長等来賓五百余名参列盛大に行はれ、正午より余興に移り幹部スターの挨拶の後川田芳子藤田姉妹の舞踊其他名優珍優のメイ技が展開されて盛況を極めた。
 (写真は式場の大谷社長と栗島田中川崎のスター連) 

《解説》 松竹大船スタジオは鎌倉市大船に起工し、昭和11年(1936)に完成した。松竹蒲田スタジオの機能は大船に移転する。平成12年(2000)に閉所した。この頃トーキーと字幕スーパーが出現し、映画は黄金時代を迎える。
【豪華!オールスター総動員】
―サインガールの殺到にスターの悲鳴―
4月22日

松竹大船撮影所の地鎮祭は特別仕立の松竹列車の到着と共に駅頭で大谷社長と平井町長の劇的な握手に始まり、続いてワンサ/\とくり込む「私のスター」を見出さうと駅から式場までフアンの渦巻であつた。また式後園遊会の模擬店が開かれるや先づスター連はフアンに包囲され次ぎから次ぎへのサイン攻めに流石のスターも終りまでおしるこ一杯もありつけず遂にS.O.S.……  (写真は式場の混雑)  
【杯は手に高く悦びの復興横浜】
―畏こくも聖駕を拝して茲に五年―
4月23日

横浜市の復興記念祝賀会は正午より記念会館に於て海軍々楽隊の奏楽裡に官民有志六百名入場。喜びの大西市長も、復興の親有吉忠一氏も共に愛市の花を胸にして列席。晴れやかに開会田辺市会議長、大西市長の挨拶を述べ、君が代奏楽に次いて横山知事発唱にて 「天皇陛下万歳」を満堂杯を捧げて唱和し立食の宴に移り、歓談の後一同「横浜市万歳」を三唱して祝宴を閉じた。
(写真は会場の有吉前市長.大西市長.横山知事.松井検事正の乾杯)

《解説》 昭和4年(1929)4月23日、昭和天皇が横浜を訪れ関東大震災の復興状況を視察、翌日には復興祝賀式がおこなわれた。横浜市では4月23日の行幸記念日を「復興記念日」として翌年から休日とした。
【花と木で飾れ!我等の愛市を】
―咲けよ繁れよ全市に満てよ―
4月23日

復興記念日の最も有為義な催し愛樹祭は午后三時から公園音楽堂で大西市長・農林省山林局長を始め一万の青少年参列して永田土木局長より樹木寄贈の趣旨説明の後、各青年団小学校代表へ授与したが、其の他に参会者全部に対して苗木や花の種子五万袋を「よく育てゝ下さい」と頼んで配布した。 (写真はステージで座女姿の少年少女の輪踊の中で行はれた植樹の型)

《解説》 この時期展開した「愛市」運動によって横浜市民は「団体的」「社会的」になることを求められていく。
【メーデー取締りの】
大評定… 署長会議開かる
4月26日

昨二十六日午後一時より県庁警察部長室に於て、メーデー取締りに関する大評定会議がひらかれた。警察本部側より相川部長始め池田特高.久山警務両課長出席.横浜.川崎.各関係署長さん出席。五月一日当日の取締につき万遺憾なきを期し、水も漏さぬ警戒の協議が開かれた。之が取締に当る警官は横浜市内が六百名、川崎は四百五十名で横浜側は総指揮官に池田特高課長.川崎側は久山警務課長が当る事になつた。
 (写真は右側三人目から相川警察部長.池田特高課長)
【各国児童の春の舞踊会】
―万国婦人会の国際親善の催し― 
4月27日


横浜万国婦人会々員児童の春の舞踊会は廿七日午后ホテル.ニユウグランドにて華々しく開かれたが、知事.市長.税関長各夫人を始め各国領事夫妻等市内の著名夫人令嬢の晴れやかな春の装ひに目も覚むる許りの美しさであつたが、プログラムの中、エリアナ.パヴロワ嬢演出のロシア舞踊『春の幻想』古代舞踊曲「ポルカ」は絶讃を博し、其の他パヴロウ門下生の模範ダンス等あつて同五時幕を閉じた。 (写真は「春の幻想」のシーン)
【紅毛弥次郎兵衛ウエツブ氏神奈川の宿へ】
―膝栗毛の第一夜は幸ケ谷小学校へ―
4月27日


廿七日お江戸日本橋を立つて東海道五十三次の旅についた舶来の弥次さん米国オハイオ州デートニア市少年団理事.L.R ウエツブ氏は府立第三商業生卅十名を喜多八とし徒歩で品川.鈴ケ森.川崎.生麦を経て午后四時には早くも子安より神奈川に入り、本覚寺に宿を求めて断られ幸ケ谷小学校の好意で同講堂に一泊したが、最初の日米条約締結の由緒ある本覚寺で米人お断りのモダン攘夷はチトナンセンスであつた。 中央ウエツブ氏
【港の誇り.塔の「三重奏」】
―税関の新築なつて港頭の偉観―
4月28日


横浜税関は工費百五十万円.十八ヶ月と九万の人を呑んで竣工。廿八日午前十一時より関係官民千五百名を招いて盛大な落成式を挙行したが、横浜港のシンボルとして名高い記念会館の美しい赤練瓦の高塔と、暗セピア色の東洋味豊かな県庁に明朗な近代色クリーム青磁の円頂、高さ百七十尺のこの税関の塔を加えて国際港都の新風景は永く横浜の名物となるでせう。
 (写真は本社奥山静陽の機上撮影)

《解説》 横浜税関は震災復興建築としてはやや遅い時期と言える昭和9年4月に落成。現在この3塔はキング(神奈川県庁)、ジャック(開港記念会館)、クィーン(横浜税関)の愛称を持ち、横浜を代表する歴史的建造物となっている。
【六万の児童を抱(ママ)括し
       校下少年団の連絡成る】
―天長の佳節に団旗を授与―
4月30日


横浜六十六の学校少年団の連合発団式は廿九日午后一時より公園音楽堂で挙行、各団の代表健児男女三千名雨中に起立。君が代奉唱裡に国旗を掲揚の後大西連合団長より燦然たる旭日に金鵄の団旗(六十六本)授与され次いで団長の式辞、文部省岩松社会教育官.横山知事等の祝辞あつて一同市歌合唱して閉式した。
 (写真は大西団長の団旗授与)