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【浜の児童は英語が達者】

横浜全市各小学校選抜英語研究会が去月本町小学校で開かれた。流石は国際都市「浜ツ子」の面目発揮、明晰りゆうちよう(ママ)に参観の先生父兄も舌を捲いた。

《解説》 初期の解説ラベルは日時が印刷されていないが、『横浜グラフ』の創刊は昭和9年(1934)3月であることから、3月初旬に送付されたものと思われる。このラベルの余白には鉛筆で「昭和九年初春」と書き込みがある。
【春はまづ『さくら音頭』から……】

花に魁けてレコードに、レヴヰウに、映画ニ、世を挙げてまさに”さくら音頭”時代だ。
 (写真は蒲田女優連の”さくら音頭”)

《解説》 さくら音頭はこの年の2月からレコード会社より発売され大流行した。【浜の児童は英語が達者】と同じ台紙(左側)に貼付される。
【林司令官の視察】
〔3月3日〕

林東京警備司令官は、三日午前十時来浜、復興と発展の横浜全市を視察して午後三時帰京した。
(写真は左より西岡官房主事、林司令官、武井市秘書課長、横山商工会議所主事)

《解説》 林東京警備司令官とは陸軍中将林仙之。
【春装を凝らして工芸展開かる】
〔3月4日〕

”工芸神奈川”の誇り、工芸試作品及観光土産品評会は四日から日本大通り商工奨励館で開催されて、多数参観者で賑わつた。
 (写真は視察中の横山知事)

《解説》 商工奨励館(現横浜情報文化センター)は、震災後の横浜商工業界の復興を目的として昭和4年(1929)に建設された。1・2階は商品陳列所で各種展覧会が催された。
【独汽船の大痛事】
〔3月6日〕

独汽船ザーランド号(七〇八七噸)は、六日未明横浜入港の際岸壁に撃突、船首に亀裂を生じ重油大量を(ママ)流出一面油の海と化し大騒ぎであつた。
【『地久節』のつどひ】
〔3月6日〕

皇子御降誕初の目出度き地久節祝賀のため、日本赤十字社篤志看護婦会支部と愛国婦人会では六日午前十時から紅葉坂の連合婦人会館でその祝賀会が盛大に開催された。
 (写真向テ右ヨリ知事夫人、内務部長夫人、市長夫人)

《解説》 「地久節」とは皇后の誕生日のこと。この記事の前年(昭和8年)12月23日に昭和天皇の第一皇子継宮(今上天皇)が誕生した。
【キヤバレーの出現】
〔3月7日〕

ホテル,ニユーグランドでは今回キヤバレーを新設する事になつて其の筋へ許可願を出した。本邦始めてのもので写真の様なサービス,ガールの出動、国際浜市の一名物ともならう。

《解説》 3月7日付『東京朝日神奈川附録』にも、ホテル・ニューグランドの地下室に「日本では最初の本格キヤバレー」が出現し、9日夜に京浜の内外人を招待しデビューすることが報じられている。
【苦心の小型陸奥】

横浜市子安町の藤尾平吉さんは皇太子殿下御降誕に際し、動く軍艦を浦島小学校へ寄贈した。氏は無学でゐながら幼少より蒸気機関を研究し十年間苦心の完成品である。

《解説》 この記事は『横浜貿易新報』などに記載がなく月日が確定できないが、【キヤバレーの出現】と同じ台紙に貼付される。
【武藤山治氏狙撃さる】
〔3月9日〕

三月九日午前九時十分時事新報社長武藤山治氏は、北鎌倉駅途上兇漢福島の為に’コルト式ピストル’で狙撃され武藤氏は重傷を負ひ、書生青木は即死、犯人は其の場で自殺した。
(写真は現場)

《解説》 武藤山治はジャパン・ガゼット新聞社の記者などをへて鐘淵紡績に入り、同社を四大紡のひとつに躍進させた実業家。大正12年(1923)実業同志会を結成して政界にも進出した。昭和5年に鐘紡社長を、7年に政界を引退し時事新報の経営に専念していた。
【武藤山治氏遂に逝く】
〔3月10日〕

大庭病院で千世子夫人、令息、令嬢の厚い看護を受けてゐた武藤山治氏は、十日夕刻急変九時廿分遂に逝去した。享年六十八才。
(写真は生前の武藤氏)
【制服より銀幕へ】
3月12日

蒲田女優志願者四百余名中の僅か五名に抜擢採用された横浜市中区本郷町石井由美子さん(十七歳)。紅蘭女学校卒業を前に、就職運動をしたといふ理由で退学処分をうけたが、本人の意気込みは凄まじく新進スターとして輝かしいスタートを切つた。 ―芸名浜乃百美―

《解説》 蒲田とは松竹蒲田撮影所のこと。
【今頃珍らしい降雪】
3月12日


暑い寒いも彼岸迄、といふ今日此頃、そろそろ桃も綻び初め様といふ季節にこれまた珍しい寸余の降雪。
 (写真は横浜公園の雪景)


【建武中興六百年祭の感激】
3月13日


三月十三日は建武中興の六百年前の建武元年旧歴(ママ)正月廿九日に当り皇道恢弘、天皇親政の御偉業を建て給ひたる日で、建武中興会では当日午後二時から横浜公園グラウンドで感激の記念祭を催した。細雨霏々たる中に有吉会長,知事,市長等参列極めて盛大に挙行された。
【米国人形ママと対面】
3月14日


七年前の昭和二年全米から蒐めて日本の子供達に贈られたお人形さんは、当時その主唱者であつたムーア女史の来朝を幸ひ十四日横浜開港記念会館で対面する事となり、お人形さんは各小学校の可愛らしい生徒達に抱かれて出席、大西市長の歓迎の辞に始まつて極めて和やかな会を催した。
【両雄何をか語る?】
3月15日


病癒えた前陸相は十五日午後一時東京自邸を自動車で出発直ちに本牧八聖殿に安達国同盟総裁と会見、会談約三十分の後八聖奉安殿に参拝し後高工の卒業式に臨んだ。政界の両雄果して何を談じ何を語つたか? 写真は八聖殿楼上より近景を説明する安達氏と荒木氏の黙祷。

《解説》 「前陸相」とは陸軍大将荒木貞夫のこと。安達謙蔵は昭和7年(1932)12月より国民同盟総裁をつとめ、昭和8年に本牧に八聖殿(現横浜市八聖殿郷土資料館)を建立した。
【殊勲の武相丸御披露】
3月15日


沿岸を荒し廻る密漁船を追払ふ為め昨年十二月、四万二千三百円を投じて建造した警戒船武相丸は、去月の初陣で殊勲を立て帰航したので、十四日関係者百六十余名を招待して披露式を行つた。同船はスクーナー型帆船丗七噸二百馬力.高速デイゼル機関を備えた快速木造船である。 (写真は実演)