伊勢佐木町通り夜景

伊勢佐木町通り夜景
タイトル: 伊勢佐木町通り夜景
年代: 昭和戦前期
分類名: 伊勢佐木町
分類番号: 022-25
当時の雑誌より(夜の伊勢佐木町の描写):
  「斯うしてツメ襟学生やセイラーの女学生が姿を消すとオフイス街から一群の御嬢さん方が吉田橋を渡つてやつて来る。
 そろそろサクラサロンのジヤズバンドや、カフエーバーのジヤズレコードが廻り初め(ママ)ると、いよいよウルトラな時のテムポと変り出す、と大体のデパートは大門を閉ぢて、電気広告灯や赤いネオンライトが恋の秘密の様にかゞやき初める。
 七時、務帰りの大部分の人は帰つて散歩の人々と入替ると、街は香水と化粧料の香が一杯になつて来る。羽衣町の横通には夜店が出て、そのせり売の声が何重かの人垣を通して流れて来る。
 八時。九時、そろそろ偽善的な酔漢がビヤホールなどから流れ出て来る。
この時間一番伊勢ブラ党の多い時間だ、時には自動車から外人の一団が、錬瓦畳みのプロムナード(?)に現れる事もある。そしてこの時間の特徴は「地獄から来たドン・フアンが何か物慾しそうな娘子軍を追ふ事だ。右と左に分れたスマートな青年達が連絡をとりながら娘達を追掛けるそして電車にでも娘達が乗つてしまふと泥濘を冒して淫売窟に素見に出かける。十時十一時夜の更けるに随つて客を得やうとする「何処かへ行つた女」の叫び声が、面白いのだ、そうして十時から十時半の間に活動館や寄席がはねると街は又人の洪水で一杯になる。同時に大体の喫茶店やカフエーで一日の無聊を慰めさせられる
 明治製菓、森永(現在は建築中)有隣食堂は学生や奥さん方で埋められる。が十一時から十一時半までにそれらの人々は皆尾上町か馬車道から電車にさらはれて行つてしまふのだ。
 と同時に伊勢佐木町通は静かになつてしまふ僅にクロネコ、地球、オリエント、アムステルダム、等数十軒のカフエーバーから洩れるレコードの音と笑ひ声と店々の大戸を閉める音だけになつてしまふ。が伊勢佐木通りの裏に廻ると、軒並のカフエーと待合は全くの歓楽境と化してしまふ。
 それと尾上町の電車通りの凝つた名前バーやカフエーの水色の電光がエロとナンセンスとを薄く濃くこきまぜて夜は悲しみを知らぬなりけり。がこゝはいさゝか以て自動車がうるさいそれでも自動車の客の争奪がないだけに東京などよりはいゝ。(後略)」(青木町三「ヨコハマ・オン・パレード 伊勢佐木町界隈の素描」『大横浜』1930年第6号)
備考: 北林透馬夫人・余志子氏が「昔は、どこのお店も夜十時頃までは開けていたから、私が透馬と結婚してからも、夕食後、ゆっくりとイセブラが出来た」(『伊勢ぶら百年』伊勢ぶら百年編集委員会、1971年)と振り返るように伊勢佐木町は夜の町だった。入口の鉄のアーチと伊勢佐木町通の両側の舗道の鈴蘭灯は1935(昭和10)年7月の設置。金属回収のため鈴蘭灯は二次に分けて外され、アーチも1942年12月に撤去された。