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【都市保健と早起励行のラヂオ体操】
―暁の空をつんざくオ一.二.三!―
8月1日

八月一日から二十日間に亘つて行はれる第四回全国ラヂオ体操の会は、横浜では市内六十六の小学校を会場として第一日は二万余の老幼男女が参加して盛大に開かれたが、この会長である市長さん、真先に立つて毎朝五時起きでお隣りの助役・課長さん等を呼起して、公舎の庭に出て朝露に濡れた芝生を踏しめての一.二.三で元気なハマ市民を激励してゐる。 (写真は右から大西市長 武井秘書課長 大岡助役)

《解説》 ラジオ体操は昭和3年(1928)11月よりはじまり、国民の体力向上の手段として重要視された。
【非常時外交工作の
   重大使命を果して近衛公帰へる】
8月2日

一九三五、六年の世界を蔽ふ国際危機の重圧を打開すべく米国要人を歴訪した日米親善の私的使節貴族院議長近衛文麿公は一日午前入港の龍田丸で帰朝、四号岸壁で母堂令室を始め後藤農相・原田男・松岡洋右・長谷川海軍次官・木戸宗秩寮総裁等名士の出迎へを受けた後、水上署員八十名の厳戒の裡を省線で桜木町より東上した。 (写真は龍田丸船上の近衛公と令息文隆氏)
【仏国の大勢は親日的と
         佐藤駐仏大使語る】
―満支情勢の為め帰省― 
8月3日

日本の連盟脱退後の欧洲に於ける外交陣を我が(ママ)守つて活躍してゐた駐仏大使佐藤尚武氏は、三ケ月の許可を得て満洲国及び支那を巡視し東洋の政情に対する認識を新にする為め、文子夫人並に房子・光子の二令嬢を伴つて近衛公と同船龍田丸で帰朝したが、出迎への齋藤駐米大使と共に直ちに上京、外務省廣田外相を訪れて帰朝の挨拶及び欧米の情勢に就いて報告することがあつた。 (写真は佐藤大使と家族)
【催涙ピストルも使用罷りならぬ】
―近代的護身武器の製造を禁止―  
8月4日

日毎に増す血腥い兇暴事件の頻発に巷の話題は戦慄し文化人の神経は尖り不安は募る許りである。そこで名案を浮べた市内西神奈川の某工場でモダン目つぶしとして催涙銃を慥へたが、これは普通のピストル同様社会の安寧を紊す虞れがあるものとして、県保安課では使用は勿論製造も絶対禁止を命じた。 (写真は出来上つたトタンに押収されたる三百挺のピストル。県保安課にて) 
【赤十字社支部新装成る】
―徳川公も来浜して盛大な落成式―  
8月5日

日本赤十字社本県支部社屋は本年一月より工費七万五千円を以て中区山下町に鉄筋コンクリート三階建延坪二百坪の新築中であつたが、去月下旬落成したので四日午前十時より会長徳川公爵・横山本県支部長以下関係者参列、県下の社員並に愛国婦人会始め各社会事業団体代表及び内外有力者を招待し盛大な落成式を挙行した。 (写真は赤十字展にて徳川公)  
【エレクトロラを据付けて
      日本一のモダン林間学校】
―市内虚弱児童を集めて四日より―  
8月6日

市内虚弱児童の為めの夏季臨海学園は四日より間門校に開かれたが、本年は後援会より百五十円の電気蓄音器の寄附を受けたので、之れを林間に備へて食後の休憩時間に童謡・軍歌等を演奏して児童の精神を慰めてゐる。 (写真は間門小にて) 

《解説》 海に近い本牧の間門小学校では「海気ニ浸り、日光ヲ浴ビ」て健全な児童を育てることを目的とし「臨海学級」も設置された。
【遥かにヒ元帥を吊す 】
―今や悲しい翩翻たる万字ナチス吊旗― 
8月7日

会ては約三倍大の露軍を撃破し世界大戦直後将に崩壊せんとせる独逸の大統領となり、よく今日あらしめた英傑ヒ元帥は遂に逝去し、七日国葬儀が行はれた。本邦在住の独逸人は何れも吊旗を掲けて哀悼の意を表した。これは一独逸商舘の吊旗掲揚の光景です。

《解説》 「ヒ元帥」とはドイツの大統領ヒンデンブルクのこと。第一次世界大戦時に活躍し国民的英雄となった。
【踊れや踊れ浜の復興】
―七日から十日間公園に開かれる
         市電主催の納涼会―
8月8日

横浜公園全部を解放して七日から市電主催の市民納涼会が開かれて居る。球場の中央に舞台をかけて踊れや踊れと復興音頭を関内の姐さんが調子を張れば、その下に円陣を画いて納涼の誰彼が手振足舞踊り抜く極めん(ママ)なごやかな情趣



【絶讃を得た市民納涼大会】
―一夜五万の人出に
      主催の市電気局えびす顔―
8月9-10日

横浜市電主催の市民納凉大会は七日より連日全横浜公園を開放して、グランドの音頭大会を始め子供遊園地の各見番芸妓手踊り映画会又は社会事業後援会の「各種一流大家演芸の夕」等盛沢山の催し物に、ぼんぼり電気提灯等の凉味を添へて、毎夜三万、五万の人出に電車もバスも鈴なりの盛况に、市電気局は久しぶりで赤字をフツ飛ばしてホクホクしてゐるが、音楽堂の演芸大会は七.八.九.十日が「エノケンの夕」、十.十一日が「映画と舞踊の夕」、十三日が「漫談とジヤズ」、十四日より十六日まで「日本俳優学校劇団の夕」であるが、エノケン・岡田嘉子・徳川夢声・リラ・ニナのハマダ姉妹等出演者はいづれもハマには珍しい顔ふれなので人気を博してゐる。 (写真は噴水附近の納涼大衆と舞踊に出演の岡田嘉子嬢)

《解説》 岡田嘉子は大正・昭和期の映画女優。昭和13年(1938)年1月、恋人とともにソビエト連邦に亡命した。
【八角楼下に英雄閑日月あり?】
―本牧に避暑する日曜の安達さん―
8月11日

三伏の暑を本牧八王子の岬に避けて涛声の松籟に和する老樹の下に静かに愛読の「唐詩選」「八廊文集」など繙くとき、八面の堂を守る聖安達の納涼は静であり又寂である。 (写真は樹陰に読書する安達謙蔵氏)
【紺碧の海原に白帆の乱舞】
―小湊沖の東日本ヨツト選手権大会―
8月12日

夏の海に適しい壮快なヨツト・レース第二回東日本大会は、小港海岸横浜セーリング・クラブ沖合に於て、十二日午前十時より早稲田・慶應・三田YC・東京YC・神奈川YC・黒汐会等の選手参加し、先づ国際単一型十二フートの三千メートル三角コース二周のレースより開始し、真夏の陽光を受けた白帆は南風二メートルの微風を孕み、白波を蹴つて先を争ふ様は正に凉味万斛であつた。 (写真は十二フートデレキーの混戦)

《解説》 横浜市では昭和15年(1940)に開催予定だった東京オリンピックのヨットの開催地として小湊を候補として推す。オリンピックは中止となったが、昭和14年(1939)から翌年にかけて新山下貯木場の隣にヨット・ハーバーが造成された。
【『守れヨコハマ』
       声高く防空演習近づく】
8月13日


防空演習も愈々迫つて各分団では猛烈な基本演習を行つてゐるが、横浜防護団では今年は標語入り「防空マーク」を売つて防空費に充てることになつたので、十六日より各分団に於て街頭で同マーク佩用の宣伝をしてゐる。 (写真は「防空マーク」の頒布港橋にて)
【邦人第二世の強豪レスラーを乗せて】
―スポーツ船龍田丸入港す―  
8月14日


十六日午前十時盛夏の港はスポーツ船龍田丸の入港で明朗な賑ひを呈したが、同船には日本レスリング協会の招聘によりハワイ・アマチユア・クラブより派遣された邦人レスラー金丸正夫(21)野田義治(17)の両君が来朝したが、更に次船大洋丸で四名が来ることになつてゐる。両君共ハワイ大学在学中で先般渡布した早大の風間・児玉の両君を破つてゐるから、躍進途上の日本選手との対戦は期待されてゐる。 (写真は右野田君 左金丸君)



【現職看守の助太刀で白刃仁義】
―あはや血の雨の親分連のでいり―  
8月15-16日


神奈川千若町埋立大蔵省保税倉庫建築場工事の関根組では、予て下請のことから対立してゐた関根組一派の殴り込みのあることを知つたので、十六日午前二時頃東京から兄弟分を招集、一味は各々手槍日本刀十手パイプ等を携へ七台の自動車で乗つけ、工事場手前の草むらに伏兵して関根組来るを今や遅しと待構てゐる危機一髪の処を、神奈川署員が発見加賀・戸部両署の応援を得て事前に取押へたが、一味は柔道三段の東京某刑務所現職看守もあり、万一手配が遅れたら重大な事態に至るところであつた。 (写真は神奈川署道場に押込まれた一味と物々しい兇器)