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【労働歌薫風に乗つてけふぞメーデー】
―フアツショの浪に押れたか?
           参加八百余名―
5月1日

第十五回横浜メーデー.デモンストレーシヨンは中村町石油倉庫趾に集合十時半より演説開始。正午行進に移つたが赤化防止団のメーデー排撃計画は伊勢佐木署と県警察部との協力により事前に防ぎ得たのと警戒の厳重とによつて途中二.三.の赤防団のビラ撒きあつたのみで案外平穏に二時半高島町広場で解散した。
(写真は会場中央取締総指揮池田特高課長と参加の女闘士連)

《解説》 満州事変以降、労働・社会運動への取り締まりが強まるとともに、国家主義的な気運の盛り上がりもあり、メーデー参加者は激減していく。翌昭和10年(1935)のメーデーが戦前最後のメーデーとなった。
【銀幕の「ミスターヨコハマ」
             は誰れ?】
5月1日

五十名の予選パスを見たカマタのスター募集の審査は一日午后横貿講堂で行はれたが、イヅレモの方一生に一度のオメカシ振りで充分磨いたお面にズボンモ折目も正しく、中には八の日でもないに態々勤め先○屋デパートを休んでの参加もあつて、大体に商人が多く学生.会社員等は割に少かつた。一通りの珍問奇答を終つて決定は近く発表されるが、大部分はどうかと思はれてマア牛乳屋さんあたりが見込がある。 (写真は前列右から松竹の野口企画部長.大塚君代.上山草人.光川京子.玉木営業部長.古田俳優係長.名和横常支配人.山東貿易編集長)

《解説》 「カマタ」は松竹蒲田撮影所のこと。この頃トーキー(発声)映画が本格化する。「八の日」(8日・18日・28日)は百貨店の定休日であることが多かった。
【全県下警察官待望の楽園】
―御下賜金の恩命を拝した
           警友病院竣工―
5月2日

畏くも両陛下より御下賜金の光栄に輝やく警友病院は、警察消防全員と家族の待望の中に港都の一異彩としてネオヽクラシズムの三層楼を山下町の一角に出現した。相川警察部長以下の熱誠と成富.隅田両技師の苦心設計と清水組の犠牲的奉仕により、数度の適切な工事変更を行つてこの近代的明朗な建築が出来上つたもので、当日朝野の賓客多数参列し接伴役である警友会長横山知事.大森院長.荒事務長など大喜びであつた。 (写真は横山知事の式辞) 
【吾れらの皇太子様の初の御節句を】
「寿ぎ奉るハマの児童大会」
5月5日

「日嗣ぎの皇子は生まれましぬ」の奉祝歌は高らかに薫風に乗つて五月の空に流れて、横浜の児童大会は午后一時大久保県学務部長の挨拶により公園音楽堂で開かれ、児童代表福島君(横浜小学校)の奉祝の言葉に次いて(ママ)、奉祝歌の合唱の後皇太子殿下の万歳を三唱 再び托児所幼児の「可愛いゝ皇太子様の歌及小学生の詩武童謡.舞踊五曲.其の他.P.C.Lオルケストラの演奏奇術等の余興沢山有り、可愛いゝ笑声のうちに午后三時目出度散会。
(写真は十五間の大鯉のぼりの下で万歳三唱に日の丸の波)
【聖恩の旗翻して音楽大行進】
―奉祝青年大会参加の
    県市の青年団の鯉のぼり行列―
5月5日

明治神宮外苑で行はれた奉祝青年大会を終り、五日午後五時横浜駅に着いた県市代表青年団は、有難き聖恩旗を先頭に水島教育課長に引卒されて、平沼町=高島町=桜木町を経て県庁と市役所で殿下万歳を三唱し、聖恩旗を格納の後六時半解散したが、音楽隊港南ブラスバンドの吹奏する勇ましい行進曲は沿道に立ち並ぶ市民達に深き感銘と喜こびを与へた。
 (写真は横浜駅頭の聖恩旗)
【「海の護り」を見学の
          全国の知事さん】
―戦艦「伊勢」で軍港へ―
5月6日

地方長官会議出席中の全国の知事達に非常時の我が海の精鋭を認識させらる可く海軍省では堀田政務次官.吉田軍務局長の説明で六日午前九時戦艦「伊勢」(三一二〇〇噸)を横浜へ廻航、一行二百名を便乗させて直ちに横須賀沖へ向け出発した。 (写真は横浜港外へ投錨した「伊勢」)
【近代日本の「海の誇り」に大安心】
―知事さん一日で速成海軍通に成る― 
5月6日

軍艦「伊勢」が横須賀沖に差かゝるや待ちうけた艦上機.戦闘機等の物凄い爆撃。次いで雷撃.煙幕防禦.及第三駆逐隊の灘風.夕風.汐風等の襲撃に肝を冷々させ乍ら手に汗を握つてあらゆる近代科学戦の壮烈な訓練を見学して上陸。記念艦三笠を見物して帰京したが演習には一同相当ハラハラさせられたが、モウ帰りには一かどの海軍通になりすまして国へはよい非常時のお土産げとなるであらう。
 (写真は同行した横山神奈川県知事.大西横浜市長伊勢艦上で)
【カメラデーに天狗連の大活躍】
―昼は無料ですが夜は?―  
5月7日

アマチュアー・カメラマンの天狗党の連中、横浜写真材料商組合のカメラデーに賞杯九十個と美人モデル大ぜいのポスターに釣られて、各々愛用のカメラを肩にフイルムもうんと仕入れて出動したが本牧三渓園。モデルはダンスとゲイシヤの両ガール嬢たち六十余名。いつも写真をねだつてはオコトハリの連中けふ一日は大ツぴらでパチリパチリ「今晩来て…」「.O.K」
(モデルを取巻いたカメラマン諸氏の撮影ぶりかくの如し)
【空には憧れが住むよ!】
―君のはる― 
5月8日

清新な薄色の装ひ   白きつゝじの花と明朗をきそひ   恋の唇にやさし唄―   赤きつゝじの花と若さに燃ゑて   いまは―  やがて来る夏の一歩手前だ
 (写真……横浜公園で)
【神域にこざ(ママ)まする
            「捧げ銃」】
―靖国神社に参拝護国の英霊に感謝― 
5月11日

若葉かほる宮城前にて秩父宮殿下の御親閲を仰ぎたる中等学生一万は、式後全員隊伍を整へ午前十一時より行進を起して九段靖国神社に至り境内に整列。神官のおはらいを受けた後忠霊に対して感謝の最敬礼を行ひ、午後一時三日間に互る意義深き記念大会を閉ぢた。
(写真神前に最敬礼の本県より参加右より湘南中学.三中.神中.の校旗)  
【秩父宮の御査閲を仰ぐ「青年日本」】
―若葉の宮城前に一万の大分列行進― 
5月11日

日清日露戦役記念大会に参加の一府四県一万の中学生は十日の多摩川原の大演習を終了して、十一日午前八時より緑濃き二重橋前に集合。同九時秩父宮殿下には陸軍大尉の御軍服凛々しく、寺倉御附武官御陪乗自動車にて御台臨、直ちに御愛馬に召され林陸相.香坂東京府知事以下関係文武官を従へ左翼より順次御親閲あらせられ、次いで軍楽隊の吹奏裡に七十四校歴史を誇る校旗を先頭に大分列式を行ひ終つて、十一時半殿下には一同の奉送裡に御還御あらせられた。 (写真は御親閲の秩父宮殿下)



【横専Y専定期戦開かれ
       先づ横専に凱歌あがる】
笠松Y専打者を封じて八A−三 
5月12日


横専Y専定期戦は、意気と熱の第一戦を十二日風やゝ強き公園グランドに両軍応援団長の握手の後横専先づ守備につき村山助役始球して午后二時試合開始のサイレンは高らかに鳴り渡り、茲にハマフアンの期待と興奮の渦巻のうちに接戦を重ねたが、笠松の好投にY専三振十五を喫して安打僅かに一、遂に第一戦はY専涙を呑んで凱歌は港北の勇横専に挙つた。 (写真は血戦開始と大観集(ママ))  

《解説》 横専は横浜専門学校(現神奈川大学)、Y専は横浜商業専門学校(現横浜市立大学)。職業野球の大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が創設されるのはこの年。当時はまだ学生野球の人気が高かった。
【ドウゾよろしく 新進名花の御挨拶】
5月14日


選ばれた[松竹]のラツキー.セブン嬢がこの十七日から一週間横浜[常設館]のステージから御愛嬌よろしく、浜の皆様に御挨拶する事になりましたが、宵の伊勢ブラで彼女等にマミエテ行楽人の目を注ぐ事であらう。
(写真は右から黒田記代.御影公子.忍節子.小池政江.水島光代.高杉早苗の諸嬢)

《解説》 原資料で[ ]内の文字は塗り消されている。
【老母に日本風景を観光させる】
―トールスさんの美しい心やり― 
5月15日


東京音楽学校に教鞭を取られてゐる、マリー.トース女史は故国独逸に残したお母さんに是非日本の美しい風景を老後の思ひ出に観光させて上げたいと、十五日朝横浜入港のドイツ汽船セロース.カール号でワザワザ呼び寄せ、ホテル.ニユウグランドで五年振りの対面を交し、小憩の後緑濃き海岸公園を散歩。折から咲き誇るツヽジの花を観賞して東京に向つた。
 (写真は海岸公園での美しい情景)